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三十八、考え方

 電車のあるうちに帰らなくてはといい、彰は二十三時過ぎに一人で帰っていった。  舜平は食器の片付けを手伝うと申し出たのだが、酔っているだろうからとあっさり珠生に断られたため、コーヒーを振舞われてつつテレビを眺めていた。  猿之助が現れ、梨香子とも連絡が取れないという状況の中、こんなにも寛いでいていいのだろうか……と思うけれど、今はじたばたしても仕方がない。食器を濯ぐ水音を聞きながら、ふと舜平は珠生をソファの背越しに振り返った。 「なぁ、珠生」 「はい?」  珠生は洗い物の手を休めずに、顔を上げた。 「お前、元気ないやん。どうした」 「え? な、なんで?」 「ちょっと、口数少なかったような気がしたから」 「ああ……いいえ。先週は熱があったからちょっとお喋りだったかもしれないけど、普段の俺はこんなもんです。もっと喋んないかも」 「へぇ、そうなんや」 「はい」  珠生がきゅっと蛇口をひねる音が響いた。舜平が珠生の行動を見ていると、珠生は自分用にコーヒーを注いで、ソファの方へとやってきた。舜平が身体をずらすと、珠生はちょこんとソファの端に腰掛ける。  そして、警戒するようにちらりと舜平を見た。  つい先週、酔った健介を送ってきた時に、珠生をこの場所で押し倒してしまったこと舜平も思い出さざるをえない。明らかに珠生は、舜平の動きを警戒している目付きである。 「あの俺……何もしぃひんから。こないだ、ちゃんと言ったやろ?」 「……そうですね」  訳もわからず、欲動に突き動かされるという事は、もうないはずだ。過去の記憶も霊力も、舜平はほほ全てを取り戻しているのだから、あの時よりは自制がはずだ。と、自分では思っている。  しかし、ソファの上で脚を抱え、コーヒーを飲みながらテレビを見る珠生の姿は、それだけで絵になるものがある。 舜平の視線に気づいた珠生は、さらりとした茶色い髪を揺らし、目を瞬いて舜平を見た。 「な、何ですか」 「いや……」  舜平は話題を変えようと、ぎこちなく笑みを浮かべると、 「千秋っていったっけ? お前の双子はどんな子なん?」と尋ねた。 「ええと……千秋は、元気で遠慮がなくて活動的で……。陸上の選手をしてて、とにかくすごく、元気な子です」 「スポーツ美人か。ふうん」 「あ、来週末は千秋が京都に遊びに来るんです。四、五日ここに泊まるって言ってたから、会ってみますか?」 「おお、見てみたいな。久々に会うの、楽しみなんちゃう?」 「はい」  珠生は素直ににっこり笑った。その笑顔があまりに眩しく、舜平は襲ってくる目眩になんとか耐えた。  しばらく京都の観光スポットについて話をしていると、テレビの中で京都御所が映るのが目の端に映る。珠生ははっとして、舜平からテレビへと目線を移した。  京都御所……あそこも、かなり因縁が深い場所だったはずだ。 「あそこで起こったことの夢は、もう見たか?」 「陀羅尼と、夜顔のことですか?」 「そうや」 「はい、特に千珠の思い入れが強かったのか、二人のことはよく夢に見ます」  特に夜顔のことについては、千珠の心の振れ幅が大きく、珠生にも強く影響が出ているような気がした。千珠は陰陽師衆の動乱が終わったあともずっと、夜顔のことを気にしていたからだ。  佐々木猿之助。  陀羅尼と夜顔を使って、都を滅ぼそうとした男。朝廷や藤原業平に対して、姉を奪われた怨恨をぶつけていた男。  五百年経っても、その強い怨念はまだ生き続けているというのか。 「猿之助は……誰かを恨んで、憎むことで、生きる力を得ていたんでしょうね。それが今も、思念だけになっても続いているなんて」 「……」  舜平は珠生の横顔を見た。その台詞にはどこか猿之助を憐れむような想いが込められているような気がして、少し驚いたのである。 「成仏できたら、楽になるのかな。どうすれば成仏できるんだろう」 「……お前は優しいな」 「え?」 「お前の口から、そんな言葉が出てくることにびっくりしたんや」 「そう、ですか? それは、千珠なら言わないだろうなって、こと?」 「せやな。当時のあいつは、夜顔を助け出すことばかり考えとったから、夜顔を利用しようとする猿之助は純粋に悪だと捉えているようやったし」 「そうですね……」 「周りが見えるようになったのはええことやけど、猿之助は俺らにとっても滅ぼさなあかん相手やから……その……」 「分かっています。そんな気を遣わなくていいですよ。思ったことは言ってください」 「あ、ああ。せやな」  珠生を傷つけまいと言葉を選んでいる舜平に、珠生はそう言ったが舜平は苦笑する。まだどこか、遠慮しているのだ。 「シャワー使ってください。父さんのTシャツなら、着れそうだね」 「おお、サンキュ」  バスルームでごそごそと着替えやタオルを準備している珠生を見ながら、舜平は再びテレビに目を移した。  この週末の天気予報。 『日曜日の午前中は晴れ間が見られますが、午後からまた曇りか雨になるでしょう……』  雨、また雨だ。  +  +  梨香子はずっと、ベッドの中から出られずにいた。  あの雨の日以来、異常なことが続いている。意識は無いのに身体が勝手に動いているらしく、見ず知らずの場所で目が覚めるということが頻繁に続いているのだ。  怖かった。  自分がどんどん壊れていっているような気がして、恐ろしかった。  梨香子が大学に来ないことを心配した男友達がメールをしてきたこともあったが、風邪を引いたからといってごまかした。遊び相手の男たちからのメールなども来たが、鬱陶しいだけだ。  舜平とあの少年のことを思い出すと、頭が割れるように痛んだ。まるで、彼らのことを思い出すことを、身体が拒んでいるように。 「なんなの……」  梨香子は横になったまま呟き、唇を噛んだ。 ――まるで、夢のなかで言われたこと、そのままじゃない。  梨香子は頻繁に夢を見る。夢の中に、黒い着物姿の大柄な男が現れては、あの二人を憎みつづけるよう梨香子に諭すのである。    あいつらは、俺を破滅へ追いやった男たちだ……。お前もさぞかし憎かろう。  その身体と霊力を、私に全て捧げるがいい。  そうすれば、あの二人を殺してやるぞ……?  そう言って高笑いする、あの額に傷のある鷲鼻の男の顔が、目の裏から離れない。梨香子の中に棲み続けているかのように、いつでもその男の存在を間近に感じた。自我を乗っ取られていく恐怖とおぞましさで、吐き気がする。 ――訳がわからない。ちくしょう、なんで私がこんな目に……!!

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