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四十、御剣の記憶
⌘ ⌘
千珠は、陰陽師衆によって為された特殊な術によって氷を張った海の上をひたすら走った、
表面が白く凍りついた氷の上を、千珠は気を巡らせながら走る。すると、千珠の行く手をはばむように、海神が氷を突き破って飛び上がる。
降り掛かってくる巨大な氷の欠片を草薙の剣で薙ぎ払いながら、千珠はまっすぐに龍に向かって走った。
そして海神の目前で飛び上がると、龍の首を横一文字に斬り払う。
ぎゃああああああ!! と恐ろしい咆哮が上がり、夜空が震えた。周囲の氷が、その震えに共鳴し、巨大な亀裂が生まれていく。
手応えはあった。千珠は龍から目を逸らすことなく、刀を背中に背負い、暴れる龍によって木の葉のように錐揉みされる氷の上に片膝をついて着地した。
氷に触れた手が、霜を拭う。
龍は、ぎらぎらと紅くきらめく双眸をまっすぐに千珠に向けた。そこには紛れも無い怒りの表情があった。
『貴様……昨日よりはやるようだね』
龍は直接能に響いてくるような重い声で、千珠にそう言った。千珠は口布を下げると、ちょっと笑ってみせる。
『私は神ぞ。一匹のたかだか鬼が、我に敵うとでも思うてか』
「人間の餓鬼に力を借りねば形を保てぬ神など、畏るるに足りぬ」
千珠は立ち上がってそう言った。龍は低く唸りを上げる。
『生意気な子鬼が。喰って我が身の一部としてやろう』
「喰えるもんなら喰ってみろ」
千珠は草薙の剣を握りしめ、再び海岸線へ向けて駆けた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ごろごろと響く雷鳴の音。
洗面所で顔を洗っていた珠生は、ふと目を開いた。
海神を抑えた剣、草薙。
そうか、あれが都を守るために使われた神剣なのだ。厳島で千珠の妖気を吸い、荒ぶる神を抑えた御剣……。
珠生は今朝方見たばかりの夢を反芻しながら、鏡に映るもうひとりの自分に向かって手を伸ばした。あの力を、もう一度この手にする……そんなことが出来るのだろうか。
自らの体内に蘇ってくる力を感じていた。
でも、まだ足りない。まだまだ、あの時の力には程遠い。
今の自分が、誰なのか……たまに分からなくなる瞬間がある。
ひんやりとしたフローリングの床を歩いていると、氷の膜の上を歩いているような気分になった。
少しずつ戻ってくる記憶と妖力を受け入れることに、想像していたほどの異物感や戸惑いはない。それでもやはり……まだ、どこか夢のようで。
珠生はリビングのカーテンを開き、窓の外を見た。曇天の空、窓ガラスを叩く雨の音。そこには普段と変わらぬ風景があるだけである。
「……記憶……か」
「珠生? ……ん、どうした?」
ガチャリと部屋のドアが開いて、珠生の部屋から舜平が出てきた。どくん、と心臓が跳ね、舜平の姿を見てその気配を感じるだけで、身体がじわりと熱くなる。
「な、なんでも、ないです。ていうか、顔洗うなら、洗面所へどうぞ。タオルもありますから」
「おぅ、サンキュな」
舜平と目が合うと、珠生の心臓はさらに大きく跳ねる。それを隠すために、ついついぶっきらぼうで他人行儀な口調になってしまうのだが、舜平は気にする様子もない。
――この気持ちにはまだ、慣れないな……。
本格的に降り始めた雨が窓を叩く。
珠生は今日、藤原修一と会う予定があった。
彰から学校での出来事について報告を受けた藤原が、珠生の様子を見ておきたいと申し出てきたのである。
加えて、佐々木猿之助が現れたことで、草薙の剣の安置場所を動かす必要性も出てきたこともあり、藤原はしばらく京都に滞在することになったらしい。
舜平は午前中はアルバイトだと言って、このまま珠生の家を出て行くことになっていた。心細いので、来れるようなら舜平にも一緒に来てほしいと珠生は思っていたのだが、なんとなく気恥ずかしく、それを自分から口には出せないでいた。
しかし舜平は、出掛けに靴を履きながら珠生を振り返ると、「あの人と、何時からどこで会うん?」と尋ねてきた。
「……正午に、グランヴィアホテルでって」
「そうか。ほなまた連絡するわ。俺も会って聞きたいことあるし」
「はい……」
「ほん、また後で。晩飯も朝飯も、めっちゃ美味かったで。ありがとうな」
「い、いえ……」
舜平は爽やかな笑顔とともにそんなことを言い残して、早足に珠生の家を出て行った。
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