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五十四、沈黙

 舜平の車に乗りこんでからずっと、珠生はぎゅっと腕を組んで俯いていた。  車は、夕方の渋滞した御池通りを、のろのろと北へ進んでいる。 「舜平さん……」 「ん?」 「家には……帰りたくないです」 「え? でも……」 「少し、遠回りしてくれませんか……」 「ああ、ええよ」  珠生は、さっき湊に話した内容を舜平にも伝えた。猿之助が、自分の部下を蘇らせて自分たちの邪魔をしにかかっていることを。  舜平は忌々しげに表情を歪めて、「くそっ」と呟いた。  信号で車が止まると、舜平は珠生をじっと見つめた。 「……怖かったやろ」 「……はい」 「猿之助……ぶっ殺す」  怒りに揺れる瞳を、舜平は前方へ向けた。信号は赤のままだ。  珠生はそっと、そんな舜平の腕に触れる。珠生に上着を貸している舜平は、半袖の黒いTシャツ一枚だった。 「そんなに怒らなくていいですよ」 「でも……やり方が汚すぎるわ」 「俺が、うまく力を使えないから駄目なんですよ」 「お前は悪くない」  舜平はきっぱりとそう言って、まっすぐに珠生を見た。その強い瞳に、珠生はどきりとする。  舜平の溢れる気を感じて、急に気が緩んできた珠生の目から、ぽろぽろと涙があふれ始めた。舜平ははっとしたように、珠生を見つめた。 「珠生?」 「すみませ……。なんか、急にほっとして……」  ひく、ひくっとしゃくりあげて涙を流す珠生を抱きしめてやりたかったが、信号が青になったため、舜平はアクセルを踏んだ。手を伸ばして、珠生の頭を撫でる。 「……気持ち、悪かったんです……怖いし、痛くて……もう、どうしていいか分からなかった……」 「そうか……」 「千珠は……あんなに強かったのに、俺……にはあんな力……なくて……」 「草薙を守ったやろ、お前が」 「たまたまですよ……きっと。俺……何なんだろう、よくわからないよ……」 「珠生……」  舜平ははっとして、急に車線を変えて右に折れた。一方通行の空いた道を選び、どんどんと車を走らせていく。 「どこ行くんですか」 「言いにくいけど……ラブホ」 「……えっ!? なんで、」 「お前の怪我、俺が治したる。……辛かった記憶も、塗り替えてやる」 「っ……」  舜平の頬には、やや赤みがさしている。しかし彼は何も言わずに、ただ車を走らせた。珠生はどきどきと不思議にざわめく胸をなだめつつ袖口で涙を拭い、暮れていく京都の町並みを眺めた。  明日からはゴールデンウィーク。町中は楽しげに飲み歩く人々や、大荷物を持って駅へと急ぐ人たちが目についた。  明後日には千秋もこっちへ来るというのに、自分のこの有様は何だろう。  珠生は息をついて、シートに深くもたれかかって目を閉じた。  疲れた。ひたすらに。  珠生は重たい瞼を閉じて、そのまま寝入っていた。  ****  湊は、こんなにも怒っている彰も佐為も、見たことがなかった。  前世から、佐為はいつも飄々として余裕たっぷりで、いつもにこにこ笑っていて、まったく思考の読めない不思議な男だった。  しかし、早退して藤原の仕事を手伝っていた彰が、再び学校へやってきたときのその顔を、湊は一生忘れないと思った。湊からの知らせを受け、説明を電話で聞いた彰は、葉山とともに学校へと舞い戻ってきたのだ。  彰の目は、いつもと変わらない様子にも見えた。しかし、その瞳の奥には、轟音とともに湧き上がるマグマのような怒りの気が揺らいでいた。  美術室は、立入禁止のテープが張り巡らされてはいたが、誰もいない。学校にはもう、教師も残ってはいない。  学校の外で彰を待ち、再び校内に入り込んだ湊と彰、そして葉山は、惨状の痕跡も生々しい美術室を検分しているのである。  彰の目には、あちこちに珠生の妖気の残渣が見て取れていた。恐怖によって爆発したその妖気が、真壁の中に巣食った清水保臣たちの霊魂を焼き尽くしたのだろう。それほどまでに珠生を恐怖させたその行為に、彰は目付きを変えたのだ。 「……珠生は?」 「舜平に連絡して、つれて帰ってもらいました」 「そう。それならいい」 「これ……珠生くんがやったのね」  暗い校舎の中、ペンライトの明かりが照らす。葉山が逆手に持ったペンライトの光は、美術室のあちこちを照らしだしていた。ガラスは全て砕け散り、破片すら残っていない。椅子や机は壁にめり込むようにして、教室の四方に固まっていたし、壁紙はまるで溶かされたようにめくれはがれている。 「猿之助、どこまでも忌々しいやつだ」  彰の低い声が、誰も居ない校舎に響く。いつもと様子の違う彰を、葉山は何も言わずにちらりと見た。 「また、学校の人らに忘却術をかけるんですか?」 と、湊。 「……そうだな。真壁の絡んだ記憶だけ、消そうと思う」 「そんなこと、できるんですか?」 「できるよ、少しエネルギーを使うけどね」 「何で、真壁のことだけを?」 「今回は、猿之助のやったことだ。真壁にこれだけたくさんの罪を負わせるのは可哀想だからね」 「……確かに」  真壁美一には、彼の長い人生があるのだ。彰は、自分たちのいざこざによって人間一人の人生を潰すのはお門違いだろう?と、彰は言った。 「しかし猿之助は……必ず殺す」  冷ややかに響く彰の声に、湊と葉山は何も言えなかった。  割れたガラスの窓から、夜の冷たい風が吹き抜けていく。

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