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五十六、客観的な変化
土曜日。
今日から、世間はゴールデンウィークである。
舜平は午前中のアルバイトを終えた後、伏見にあるフットサルコートに来ていた。高校時代のサッカー部の友人たちから、フットサルの誘いを受けていたのである。
人工芝とは言え、久々に踏みしめるコートの感触は、舜平のテンションを引き上げた。気のおけない仲間たちとボールを蹴り合い、気持よくシュートを放つ。活発に身体を動かしていると難しいことを考えずに済むため、久々に頭のナカを空っぽにして楽しむことができたような気がした。
審判をしていた元マネージャーがホイッスルを吹く。休憩の時間だ。
入れ替わりに違うメンバーが走り回っている様子を、ベンチで汗を拭いながら眺めていると、隣に元チームメイトの北崎悠一郎 が腰を下ろした。
「舜平、まだまだ全然走れるやん。大学でも何かやってんの?」
悠一郎は、京都市立芸大の学生だ。高校時代は地味な見た目をしていたけれど、芸大でデザインと写真を学んでいる今の悠一郎は、いかにも芸大生という小洒落た出で立ちに変わっていた。髪を長く伸ばして、後ろでおだんご頭を作り、長く伸ばした前髪を真ん中で分けて流している。そして、耳には大きめのピアスが揺れていた。節くれだった長い指にえらくごつい指輪をはめていて、それも嫌味なく様になっていた。
「いや、なーんもやってへんな。一応フットサルサークルに入ったけど、単なる飲み会サークルやったから行ってへんし」
舜平はぐびぐびと水を飲みながら、そう言った。悠一郎もスポーツドリンクを飲みながら頷く。
「俺も、そんな感じやな。なぁ、たまにはまたここで試合やろうや。なんやかんやで結局みんな関西圏内の大学に進学したわけやしさ」
「せやな。……動いてたら、何も考えんでええから楽やしな」
「え、舜平なんか悩んでんの?」
「いや、別に……」
「何や何や、悩みなら聞いたるで。気楽に言うてみぃ」
「なんもないって」
舜平はそっけなくそう言って、また水を飲んだ。だいたい、ここ最近の舜平の悩みなど、常人に話せるような内容ではないのである。
「なんや、つれないなぁ。今夜、このまま皆で飲み行くやろ? そんときでも聞いたるで?」
「何もないて。なんでそんなに聞きたがんねん」
しつこく食い下がってくる悠一郎に、舜平はぶすっとした顔を向けてそう尋ねた。悠一郎はじっと舜平の顔を覗きこみながら、こんなことを言った。
「だってお前、なんか年末会うた時と比べてさ、なんやめっちゃ顔つき変わってんねんもん。なんかよっぽどのことがあったんやろうなと思ってさ」
舜平は驚いた。自分の中の大きな変化を感じ取る、悠一郎の嗅覚に驚いたのだ。
「……間違いではない、かな」
「ほらな」
悠一郎は得意げに笑うと、もう一度コートの方へ目をやった。ちょうどシュートが決まって、皆が歓声を上げているところだった。舜平も拍手をする。
「俺、昔から写真取るからかな、一度見た人の表情や風景は、くっきり記憶に残るみたいやねん。お前、なんか急にどっしりしたというか、深みが出てきたというか……なんやえらい、ええ男になったな」
「……はぁ? 気色悪いこと言うな。ま、気が向いたら話したるわ」
「あっそ」
再び、ホイッスルが鳴った。二人はベンチから立ち上がると、フットサルコートに入った。
* * *
珠生は目を覚ました。時計を見てぎょっとする。
もう十二時半である。
むくりと身体を起こすと、下半身にずっしりとした痛みを感じた。否応なく、昨日のことを思い出す。
舜平との、甘い甘い、あの時間のことを。舜平のおかげで、真壁のことはあまり思い出さずに済んでいた。
部屋から出てみると、父親がリビングで新聞を読んでいた。なんとなくどぎまぎしてしまって、珠生は無言でキッチンへ入る。
「おはよう珠生。今日はずいぶんゆっくりだね」
「あ、うん……おはよう」
珠生は重たい体を引きずって、水を飲みながらパンを焼く。ソファの背もたれ越しに、珠生の様子を見ていた健介が声をかけてきた。
「調子悪そうだね、どうしたんだ?」
「え? いや……別に」
「また別にって言われた」……とショックを受けている健介を見て、珠生はため息をつく。
こんなことでショックを受けてしまうような気の弱い父親だ。昨日の出来事や、今珠生が置かれている状況などを知ったら、発狂してしまうだろう。
どんよりと影を背負った父の背中を見ながら、珠生は苦笑した。
「俺、美術部に入ったんだよ」
突然、学校生活について話し始めた珠生の声に、健介は振り返った。
珠生はこの一週間で起きたことを、淡々と報告していった。湊と潤也、彰のこと、出会った美術部員のことや、担任のこと、そして試験のことなど。健介はそれを嬉しそうに聞いては、もっと詳しく知りたがった。
ゆっくり健介と話をするのは久しぶりで、穏やかな気持ちになる。
「そっか、父さん安心したよ。久々に一緒に暮らすだろう? いまいち自信がなかったからさ」
「自信? 何いってんだよ。家族なんだから、気を遣わなくていいのに」
と、珠生はパンを齧りながらそう言った。
「いいや、家族だからこそ……ね。僕は、一度はお前たちを捨てたんだ。だからもっと……今はちゃんとした父親でいたいって、思うんだけど」
「……捨てられた、なんて思ってないよ」
しゅんとなった健介に、珠生はそう言った。健介が顔を上げる。
「千秋はどう思ってるか知らないし、世間一般の人はどう考えるか分からないけど。父さんの人生は父さんのもんだ。俺は、父さんのやりたいことを諦める必要はないと思う」
珠生の言葉に、健介は目を丸くした。
「お前……」
「人生は一回きりなんだ。今、父さんは幸せなんでしょ? だったらそれでいいじゃないか。やりたくもないことをやって腐っていく人生を送るなんて、無意味だよ」
健介は、しばし呆然としたように珠生を見つめて、黙り込んだ。そしてやや戸惑ったような口調で、こんなことをつぶやく。
「珠生……お前、そんなことを考えてたのか?」
珠生ははっとして口をつぐんだ。健介は、とても複雑な表情を浮かべている。
「あ……俺、冷たいかな」
「いや、そんなことはないよ。ただ、ちょっと驚いただけで」
と、健介は微笑む。
「子どもってのは、しばらく会わないうちに、すごいことを言うようになるんだな……と思ってね」
「そんなこと……ないよ。俺は、昔から……こんなだし」
「……そっか。そうだったんだな。父さんが知らなかっただけなんだな。……本当にごめん、珠生」
「ううん……」
健介は寂しげに微笑むと、立ち上がって珠生に歩み寄り、そっと珠生の頭を撫でた。その手つきには贖罪を望むかのような重みがあり、珠生は気まずくなってふいと顔を俯ける。
――昔の俺なら、こんなことは言わなかったかもしれない。前世の記憶を思い出す前の俺なら、きっと……。
自分自身の変化に一番ついていけていないのは、俺なのかもしれないな……と、珠生は思った。
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