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六十二、父娘の再会
健介は、どきどきしながら自転車を漕いでいた。
五年ぶりに会う娘が、家にいる。そんな現実が、健介をいまだかつてないほどに緊張させている。
仕事が手につかないまま、ばたばたと荷物を片付けて研究室を出てきた。
ついさっき研究室にやってきた相田舜平が、千秋と珠生を京都駅で拾って家まで送った、と話していたのを聞いて、いてもたってもいられなくなったのだ。
かわいい双子ですねぇ、と舜平に言われて照れ笑いしながらも、千秋とすみれの顔が記憶の中でだぶり、少し怖くなった。
きっと千秋は、自分を恨んでいるに違いない。
しかし珠生は、恨まれるのも親の仕事だと言った。その通りだと思った。
千秋がここにいる数日は、ちゃんと帰ろう。話ができるならちゃんとしたいし、無視されるにしてもちゃんと無視されようと、心に決めていた。
しかし、いざ足を家路に向けると、やはり怖かった。小さい頃から勝気だった千秋が、自分にどんな恨み節をぶつけてくるのかと想像しただけで、恐ろしかったのだ。
あっさりと自宅に着き、自転車置き場に自転車を停めると、健介はため息をつきながら少し居住まいをただした。
のろのろと階段を上がっていくに連れて、鼓動が早まる。回れ右をして、大学に戻ってしまいたい気持ちを何とか抑える。
がちゃりと鍵を差し込み、手首を捻ってドアを開けると、ふわりと夕食のいい匂いが漂ってきた。
いつだって、珠生は帰りの遅い健介にも食事を用意してくれている。最近、それにすっかり甘えてしまっていることにはっとする。
テレビの音と、人の話し声がする。女の子の笑い声だ。
廊下を進み、リビングに続くドアを開けると、ダイニングにすらりとした少女が座っていた。キッチンから珠生も顔を出す。
「おかえり、父さん。ちゃんと早く帰ってきたんだね」
と、珠生が笑っている。
「あ、うん。千秋が……もう来てるって、相田くんに聞いて……」
そう言い終わらないうちに、千秋が立ち上がって自分の方に歩み寄ってくるのが見えた。
記憶の中の千秋と比べてかなり伸びた身長と、伸びやかな手足。顔立ちは珠生と同じだが、その勝気な目付きは母親そっくりだった。
「千秋……」
「久しぶり。お父さん」
「ひ、久しぶり……。大きくなったな」
健介は鞄を床において、千秋の頭に手を載せた。千秋ははっとした顔をしたが、健介の掌の下から、じっと潤んだ瞳で健介を見上げた。
「バカ、大きくもなるよ」
涙声で、千秋が健介に抱きついた。健介は胸が詰まるような思いで、そんな千秋の肩を抱く。
「ごめんな。ごめんな……ずっと……」
「謝るくらいなら、ほったらかすなバカ!」
「うん、そうだよな。父さん、大馬鹿だ」
「うぇええん」
子どものように声を上げて泣きだした千秋を、珠生は微笑みながら見ていた。健介も涙ぐみながら、自分の胸で泣きだした千秋の頭を撫でている。
小さい頃は、千秋はお父さんっ子だった。いつも笑顔で優しい父親が、大好きだった。
父親が出ていって、気丈に振る舞う母親の姿を見るにつけ、自分がしっかりしなくてはと思っていた。頼りない珠生のことも、守ってやらなくちゃと思っていた。
だから、ずっと泣かなかった。
記憶の中の父親と、今目の前にいる父親の姿は、何も変わっていない。涙をこらえた小学三年生の頃と、何も。
頭を撫でる温かい手も、変わっていない。変わったのは、千秋の背丈が伸びたことくらい。
横で笑っている珠生の笑顔も、暖かい。
「……食べよ。ご飯、冷めちゃうよ」
と、珠生がそう言った。
千秋は鼻を啜りながら、じっと健介を見上げた。穏やかに自分を見返す健介の目は、珠生とそっくりだった。
健介が微笑む。
「うん、食べよう。珠生のご飯、美味しいぞ」
「……そんなの、知ってるもん」
千秋はふくれっ面になって、健介から離れた。
「あたしのご飯だって、美味しいもん」
「はは、そうか」
と、健介が笑った。
すっかりこどもっぽくなってしまった千秋を見て、珠生はまた笑った。
幸せだと、思った。
血のつながり、家族の絆……なんて暖かいものだろうと思った。
千珠……あの頃の自分も、感じていただろうか。
今の俺と、同じようなこの気持ちを。
***
大学に残って作業をしていた舜平は、時計を見上げて微笑んだ。そろそろ、親子の感動の再会をしている頃だろう。
珠生がこっちへ来ると言って喜んでいたときは、もっと穏やかに笑っていた。
しかし、千秋の名を出した時の、健介のあの上がりっぷりを見ていると、娘との再会はまた違った感情が沸くのだろうなぁと感じずにはいられない。
「何にやけてんねん」
と、向かいに座ってパソコンを叩いていた拓が、そう言った。舜平ははっとして、笑みを引っ込める。
「……いや、先生えらい緊張してはったなと思って」
「ああ、双子がもう一人来てはんねんな。可愛かった?」
「おお、そらもう、美少女やったよ。健康的な」
「へぇ〜いいなぁ、お前ばっかり」
拓は、自分が狙っていた女子学生が舜平に気があるということを、まだ根に持っているのである。
「お前も挨拶行ったら?」
「ええ? ええわ、高校生やろ? それに先生の娘さんやもん」
「……そうやな」
舜平はため息混じりにそう言った。自分はその先生の息子の高校生とどえらい関係になっているのだがさと頭の中で呟く。
「珠生くんも、イケメンやったもんな。そら片割れも美人やろうなぁ。ええなぁ、家の中にあんな華やかな子が二人も居るなんて」
「あ、うん。せやな」
舜平は曖昧に返事をして、パソコンをシャットダウンした。集中できなくなってきたのだ。
「拓、腹減ったわ。何か食うてもう帰ろうや」
「そうやな。もう二十時か……」
拓は大きく伸びをした。そして、研究室の掲示板に貼ってあるポスターを見て言った。
「なぁ、見た? 交換留学生の話」
「え?ああ、毎年やってるやつやろ」
「今年はうちの学部から将来有望な学生を送るって言ってたで、誰が行くんやろうな」
「さぁ? 先輩やろ? 二年の俺らには関係ないんちゃう」
「あ、そっか」
「行きたいん?」
「そらなぁ。就職にも有利かなって」
「まあ、確かに……。推薦してもらったら?」
「うーん。若干名やろ、舜平も行こうやぁ」
「えっ、俺はいいわ」
帰り支度をしながら、舜平は何も考えずにそう言った。拓も立ち上がる。
「何で? お前、去年は行きたいなぁって言ってたやん」
「そうやっけ」
二人は研究室を出て鍵をかけ、守衛室へと向かった。
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