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六十三、生まれ変わる肉体

 午前二時。珠生は目を開いた。  ドアを細く開けて、リビングの様子を見る。家の中は真っ暗で、皆が眠りについているようだ。  食事の後も、千秋は健介とよく喋っていた。はじめはつんけんしていたが、徐々に素直な笑顔で笑うようになっていたし、そんな千秋の様子に、健介も目尻を下げていた。  やっぱり娘は可愛いんだろうな、と息子ながらにそう思った珠生であった。  千秋は、リビングの片隅にある小さな和室に寝泊まりしている。襖で仕切られた和室からは、物音一つしていない。  珠生はドアを締めると、暗い自室の中で着替えた。  夜は冷える。ジーパンに長袖の黒いTシャツ、パーカー、さらにカーキ色のモッズコートを羽織った。窓を乗り越えてベランダに出ると、置いておいたスニーカーを履いて空を見上げた。  月はなく、暗い夜空だ。曇っているのか、星はひとつも見当たらない。  珠生は目を閉じて、深く息を吸った。胸の中に冷たい空気が流れこんで、珠生の体内に気が満ちる。  眼を開くと、珠生は唇に少し笑みを浮かべて、ひょいとベランダの手摺の上に立った。  珠生たちの部屋は三階だ。地上からは十メートルほどの高さがある。  珠生はその高さに臆することなく、手すりを蹴って空に身を躍らせた。  ばたばたと、落下する空気の抵抗で服がはためき、珠生の髪の毛を逆巻く。  たん、と軽い音を立てて、珠生は四つ這いになって地面に降り立った。まるで猫のような身のこなしだ。  珠生はちらりと上を見上げて、また少し笑うと、たたっと暗闇の中を走りだした。    身が軽い。  まるで空気と一体になったかのように、自由に動くこの身体。まるで夢のなかの千珠のように。  珠生は暗闇に紛れて走った。  地を蹴る度に、今まで肉体に囚われていたかのような重い体が、ふわりと息を吹き返すような気がした。  ――気持ちいい。どこまでも行ける。  ぐっと身体を縮めて跳び上がり、珠生は電柱の上にふわりと乗った。後ろを振り返ると、あっという間に自宅マンションが見えなくなっていた。  ちらちらと見える家の明かりが、眼下に広がる。   人気はない。ここはもう、比叡山の麓だ。  珠生はひょいと跳んで、立ち並ぶ杉林の中に飛び込んだ。高い位置にある枝枝を足場に、どんどん山頂へと駆け登っていく。  がさがさっと音を立てながら、枝を揺らして暗闇を進む。その目には、はっきりと闇の中が見えていた。  信じられなかった。自分の足が、こんなに速く動くなんて。自分の体が、こんなにも自由だなんて。  ――君の身体は、もう筋力や体力とは違う次元で動く。妖気が戻った君の身体には、千珠さまの能力全てが再現される、と言っていた藤原の言葉を思い出す。  戻ってきた、この力。  深い自然の中にいてこそ、深く息ができるようだった。千珠がそうであったように。  夜に溶ける。木々と遊ぶ。大地を愛でる。  あぁ、この大地の気と、一体になる感覚。なんて懐かしいんだ。  珠生は走りながら、目を閉じて笑っていた。  ざっと開けた場所に出ると、珠生はふわりと一回転し、地面に降り立つ。そこには黒いスーツの男が立っている。藤原修一だ。 「よく、ここまで自力でこれたね」 と、暗がりの中で藤原がそう言った。 「はい。今はもう、距離など感じません」  立ち上がった珠生は、凛とした声でそう言った。藤原は微笑む。 「そうか。さすがだな」 「業平様のおかげです」 「その名で呼んでくれるのか。嬉しいね」  二人の頭上に、結界が張られる。藤原の背後には、今日も葉山がいた。 「毎晩やるんですかぁ?寝不足はお肌に悪いんですけど」 と、ぶつくさ愚痴を言っている。 「それなら、明日からは佐為に結界を張ってもらうとしようか」 と、藤原。 「……大丈夫です。昼間、寝ますから」 と、葉山は言った。  珠生が胸の上で合掌すると、そこに青白い光が生まれた。すうっと、その掌から美しくきらめく宝刀が姿を現す。月のない暗闇の中でも、その宝刀は自ら光を放ち、鼓動した。  それを右手に握りしめた珠生は、じっとまっすぐに藤原を見据える。 「どこからでも、どうぞ」 「ほう……随分自由に取り出せるようになったね」  藤原の声は、嬉しそうだ。珠生の身体から湧き上がった風が、藤原の頬をかすめていく。 「いつ見ても、美しい剣だ」 「俺も、そう思います」  藤原の手が頭上に上がる。  かっと迸る閃光で、辺りが昼間のように明るくなり、葉山は思わず目を細めた。  ** **  地面に大の字になって、激しく呼吸を繰り返す珠生を、藤原は満足気に見下ろしていた。  人間の肉体を持つ珠生には、当時の千珠の力すべてが戻ったわけではない。しかし、これなら充分だと思った。  これで、術式を発動するための鍵が揃った。  千珠の妖力でかけられた結界術の鍵を、これで解錠することができる。藤原は安堵とともに、一つ肩の荷が下りたような気持ちになった。  歩み寄って珠生に手を差し出すと、珠生はその手を掴んで身体を起こした。 「さすが、飲み込みが早い」 「ありがとうございます。なんか……自分じゃないみたいだ」 「そうかい? それが、本来の君の力だよ」 「そうですか……。信じられないな」  珠生は呼吸を整えて、砂利の上に立ち上がった。 「君の修行の前に、彼の修行にも付き合っていたんだよ」 と、藤原はくたびれたようにそう言って、後ろを振り返った。 「え?」  珠生は、砂利を踏む足音を聞いて、藤原の向こうにいる人物を見た。 「……舜平さん」 「うす」  デニムを履いてジャージを着込んだ舜平が、ポケットに手を突っ込んで立っていた。短い黒髪が風で乱される。 「お前、すごいやん。ほんまに千珠が戦ってるみたいやった」 「見てたんだ」 「今日の疲れっぷりと妖気の様子から、何かしてんなぁとは思ってたから。業平様に聞いたんや」 「やれやれ、中年の身には堪えるよ。次の修行は明後日だ。いいね」 「はい」  珠生は頷いた。藤原は微笑むと、葉山を伴ってその場を離れていった。  二人になると、舜平はくくっと笑った。 「こんな数日であんなに動けるなんて、すごいな。びっくりや」 「業平様いわく、あの真壁の一件に刺激を受けたことと、その後の舜平さんとの交わりで、一気に気が高まったそうです」  さらりとそんなことを言う珠生に、舜平はやや赤面した。もっとも、暗いので分からないが。 「そうか。なるほどな」 「変な能力ですね、舜平さん」 「変なのはお前の身体や」 「はは、そうか」  珠生は笑った。舜平は肩をすくめて、ポケットから車のキーを取り出した。 「送っていく」 「いいですよ。走ったほうが早そうだし」 「アホ、そろそろ夜が明ける。そんなことしてたら、通報されんで」 「あ、そっか」  舜平におとなしくついてきた珠生は、助手席に乗り込んでふうと息をついた。舜平がペットボトルのスポーツドリンクをくれた。 「……おいしい」 「そうやろ」  エンジンをかけて車を走らせる舜平の横顔を見る。感じる。舜平の霊気も高まっていることを。 「いつから藤原さん捕まえてたんですか?」 「お前との約束の、二時間前くらいかな。器の大きい人や」 「そうですね。さすが、業平様です」 「はは、佐為みたいな台詞やな」  くねくねとした暗い山道を下っていると、山際がうっすらと白んでくるのが見えた。  美しい風景だった。 「これで術式が行えるって、言ってたね」 「ああ、そうやな」 「何事も起こらなきゃいいけど……」 「そうもいかへんやろ。梨香子も……猿之助も相変わらず見つかってへんしな」 「……そうだね」  しばらく沈黙になった車内で、各々が考え事をしていたが、珠生はまた、徐々に重たくなる瞼を感じていた。必死で開けておこうとしていたが、抗えない眠気だ。 「お前、いっつも眠たそうやな。業平様言ってたやろ? 体力とか筋力とか、関係ないって。三日三晩寝ぇへんでも平気なはずやで」 「そんな事言われても……今まで夜遊びとかしたことないから、健全な習慣が身についちゃってて……慣れるまではちょっとつらいかも」 「ふうん。まぁ、着いたら起こしたるから。寝とき」 「いや……大丈夫。起きてる」 「なに意地張ってんねん。お子様は寝とけ」 「お子様って何だよ」 「夜更かしできひんねやろ? お子様やん」  小馬鹿にしたような舜平の言葉に、珠生がむくれる。舜平は笑った。 「ようやっと敬語が取れてきたな。ええこっちゃ」 「あ……うん」  珠生は照れたように少し笑った。横目にそんな笑顔を見て、舜平の心臓は性懲りもなくまたどきりとする。 ――ホンマに可愛いな、こいつ……。  千秋も美少女だが、珠生とはやはりまるで雰囲気が違う。こうして見ていると、本当に珠生には性別を超えた魅力があるのだ。  千珠の力を取り戻せば戻すほど、それは際立ってくるようだった。 「千秋ちゃん、お前のこと変わったって言ってたか?」 「うん、言われた……色気が増したって言われたよ」 「はは、そうか。鋭いな」 「返答に困るよ。……でもまぁ、今は父さんとの再会でこどもっぽくなっちゃってるから、しばらくは俺のことなんか眼中にないと思うけど」 「そっか。よかったやん」 「うん、微笑ましかったよ」 「他人ごとみたいやなぁ。まぁ……お前はもう通ってきた道やもんな」 「うん。まぁね」 と、珠生は楽しげに笑った。  ――あかん、可愛い。  舜平は、ぎゅっとハンドルを握りしめた。珠生に触れたいと、体中の細胞が騒ぐ。  もうすぐ山を降りてしまう。舜平はそれに気づくと、目の前にタイミングよく現れた待避所に車を寄せて停めた。眠気にぼんやりとしていた珠生が、窓の外を見る。 「あれ? どうした……の」  運転席から身を乗り出して、舜平は珠生を抱き寄せていた。手を伸ばして珠生のシートベルトも外すと、ぎゅっと更に身を寄せる。  突然のことに反応できないでいる珠生だったが、心地良い舜平の体温に、すぐに身体が緩むのを感じていた。 「……どうしたんです」 「珠生」 「はい」 「お前……ほんまに可愛いな」 「えっ」 「あっ」  思わず漏れた内言語に、舜平自身が一番ぎょっとしていた。ぱっと身を離して、ぽかんとしている珠生を見下ろした。 「……いきなり、どうしたんですか?」  舜平は赤面すると、咳払いをして運転席に収まった。そしてサイドブレーキを上げ、再び車を走らせ始める。恥ずかしさに、目眩がしそうだった。 「シートベルト、しろよ」 「……舜平さんが外したくせに」  ぶつぶつ言いながらシートベルトをセットする珠生は、赤くなっている舜平をちらりと見て少し笑った。  夜が明け始めた町を、車は滑るように進んでいく。

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