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六十七、写真家との出会い

 珠生は用を足しに行っていたのではなく、足りなくなった飲み物を買い足しに出ていたのである。  スーパーから一人歩きをしつつ河原を眺めていると、徐々に人が増え始めていることに気づいた。  昨晩は天気がいまいちだったものの、朝から晴れて気温が上がったこの昼下がりに、家でじっとしていられなくなった人々が外に出てきたのだろう。  中には、これから夜にかけてバーベキューを催すのか、学生たちがわんさと集っている様子もあった。  平和だなぁ……と、きらきらと太陽を反射してきらめく水面を眺めながら、珠生は歩いた。 「あのう、すいません」  不意に背後から声をかけられて、振り返る。  珠生より少し背が高く、長い髪を一つに結い、大きなサングラスをかけた男が立っていた。胸には大きな一眼レフカメラをぶら下げている。 「突然声をかけて、ごめん。俺、芸大で写真を専攻している者なんやけど……」 「はぁ」  見るからに胡散臭い男に、珠生は警戒しながらじろじろとその姿を観察した。耳や指には、ごつい指輪やピアスをしているが、それが自然と様になっている。服装は至って軽装だが、首に巻いたストールやジーパンの履き方などで、確かに常人とは違うセンスを持っているような雰囲気は見て取れた。 「一枚、写真を取らせてもらえへんかな。……君、俺の撮りたい風景にめちゃ合うてんねん。ちょっとでええから、モデルになって欲しいんやけど……」 「えっ!? ……いや、それはちょっと……」 「いや、あの、急に言われて気持ち悪いのは分かんねんけど。お願いします、このとおり!」  その男はがばっと身体を直角に折って頭を下げた。珠生はぎょっとして、身を引いた。 「でも俺……そういうのはちょっと……」 「お願いします。なんなら、モデル料も払うから!」 「いや、お金の問題じゃなくて……」  珠生が困り果てていると、ぐいと珠生の肩を引く者があった。首をひねって見上げると、そこには舜平がいた。 「どこ行っててん。皆探してたぞ」 「あ、舜平さん……」 「おお! ええところに! 君、舜平の友達?」  ひょいとサングラスを上げると、そこには舜平の高校時代の同級生、北崎悠一郎のほっとした顔が現れた。 「お前、北崎、こんなとこで何やってんねん」 「いや、この子にモデルになってもらわれへんかと思って、拝み倒しててんけど……。なぁ、俺はあやしい奴やないって、言ってくれへん?」 「その格好、十分怪しいやろ。ていうか拝むならグラサンとらんかい」 「あっ、ごめんね」  二人のやり取りを見上げていた珠生は、舜平のシャツの裾を引っ張った。 「あのう……この人は?」 「高校時代の同級生や。おんなじサッカー部やってん。こんな格好やけど、ホンマに芸大生や」 「写真って?」 「あ! そうだ、これ見て! これ見てくれたら、俺が怪しくないって、分かってくれるんちゃうかな!」  悠一郎はリュックから小さなアルバムを取り出すと、珠生に手渡した。  珠生はそれを受け取って、ぱらりとページを捲った。 「わぁ……」  珠生は息を呑んだ。  そこに収まっている写真は、どれもこれも美しかったからだ。  きらきらとした光を活かしたソフトフォーカスの風景写真には、シャボン玉で遊ぶ子どもと犬の姿。次のページには、京都の街角で普通の男子高校生数人が、アイスを美味そうに食べながら歩いている風景をセピア色に加工したもの。パラパラとめくった最後のページには、見事な桜の写真があった。その木の下で、まるで桜を愛でるように見上げている一匹の小さな白い猫の写真が入っている。 「お前、綺麗な写真取るんやな」 と、舜平も感心したようにアルバムを覗き込んでいた。悠一郎は嬉しそうに笑った。 「そう? ありがと」 「……本当に、本当にきれいだ」 と、珠生はつぶやいた。  きらきらした目を悠一郎に向けて、珠生はにっこり笑うと、悠一郎が目を瞬かせる。 「俺、絵を描くんです。だからかな、こういう色の使い方、本当にきれいだと思う」 「え……、ほんま? 嬉しいなぁ。ほな好きな奴、どれでもあげるわ」 と、悠一郎は心底うれしそうにそう言った。 「ありがとうございます。じゃあ、この桜のやつ……」 「うん、いいよ。あのさ、こういう写真やし、変なことには使わへんから……どうやろう、一枚、写ってくれへんかなぁ」 「……」  珠生は迷っているのか、もらった写真に目を落として何も言わなかった。 「クレームがあったら、舜平に言ったらええから。お願いします」  悠一郎はまた直角に身体を折って、頭を下げた。珠生は困った顔で、舜平を見上げた。  舜平は肩をすくめると、「まぁ、文句あったら俺がいつでも殴っといたるから、お前の好きにせぇ」と言った。 「はぁ……。じゃあ、いいですよ」 「ほんまか!? ありがとう! ありがとうな!」 「どうしたらいいんですか?」 「俺、後ろから付いて行くし、二人は普通に喋りながら河原歩いてくれたらそれでいいから!」 「はぁ? 俺も写るんかいな?」 「ちょっとくらいええやん。上手に外した写真も取るから大丈夫や」 「……ふーん」  悠一郎はサングラスを頭の上に差して、いそいそとカメラの調子を合わせながらついてきた。背後でカシャカシャシャッターをきる音がしたり、横でシャッターを押したり、回りこんで前から構えたりと、急げしげに動きまわる悠一郎に戸惑いながらも、珠生はふと舜平を見上げた。  舜平は無言で珠生の手からジュースの入った重い袋を取り上げる。 「あ、いいのに」 「ええよ。重いやろ」 「あの……この人、一枚って言ってましたよね」 「まぁ、こんな奴やけど悪い男じゃないから、大丈夫やで」 「芸大かぁ、すごいなぁ」 「ほんまやな。けど高校んときは地味やってんで? サッカー部でもぱっとせぇへんような」 「ふうん。すごく……弾けてるように見えるけどな」 「芸大が合ってたんやろうな。ええこっちゃ」 「……何で俺がこっちにいるって分かったの?」 「そんなん、お前の匂いでわかるよ」 「……匂い、ですか」 「そんな気持ち悪そうな顔、すんな。傷つくわ」 「あはは、舜平さん、面白いね」  傷付いているような舜平の顔を見て、珠生は楽しげに笑った。そんな珠生の顔を見ていると、胸の中がくすぐったくなるようだった。  少し陽が落ち始め、辺りはうす橙色の光に包まれている。その柔らかな光を受けて、珠生の笑顔は優しく輝いて見えた。  ――あかん、ホンマに、こいつは可愛すぎる。  舜平は思わず目をそらす。  悠一郎は、ふと顔を上げた。  珠生の笑顔と、照れたように目を逸らした舜平の姿を見比べていると、ピンときたのだ。  ――舜平……あれ? その表情はひょっとして……。  悠一郎は何も言わずに、またシャッターを切りはじめた。  芸術家はそういうことにはおおらかなのだと、心の中で呟きながら。  +  +  夕方になって、珠生と千秋は帰宅した。  健介は結局、その日は夜まで大学にいるとメールが入っていた。そのことで千秋が不機嫌になるのではないかと珠生は心配になったが、それは杞憂であったらしい。千秋は日に焼けて赤くなった頬をタオルで冷やしながら、上機嫌な笑顔を浮かべている。 「あぁ、楽しかったな」 「賑やかだったね。俺、こういうの始めてだ」 「しかし珠生にあんなにたくさん友達がいるなんて、びっくりしちゃった。やっぱりあたしから離れたほうが、生き生きしてるみたいだね」 「うーん、まぁ、そうかもね」  珠生は持ち帰ってきた食材の残りなどを冷蔵庫にしまい込みながら、曖昧にそう言った。  千秋はキッチンのカウンターに肘をついて、そんな作業をしている珠生を見ていた。 「ねぇ、ちらっと喋ってたあのグラサンの人は誰?」 「あぁ、あの人は舜平さんの高校時代の同級生だって。モデルになって欲しいって言われて、何枚か写真撮られた」 「ええー!? あんた写真とか、嫌いだったじゃん」 「うんまぁ……でも。あんなに頭下げられたら、一枚くらいいいかなって。舜平さんの友達だし、悪い人じゃなさそうだったから」 「ふうん。珠生って、舜平さんのことはすごい信頼してるんだね」 「そうかな。まぁ……良い人だよ」  珠生は淡々とそう言って、千秋に冷たいお茶を渡した。千秋は嬉しそうに、それを受け取って一気に飲み干す。 「みんな、良い人だよ。正也もね」 「……ああ、あの子」 と、千秋はやや仏頂面になる。 「千秋のファンなんだろ? アドレスとか教えたの?」 「教えてないよ! ……どうせ、言ってるだけでしょ」 「そうかなあ。あれは本気だよ、きっと」 「もういいってば。あたしはあんまり興味ないよ」  千秋はうるさそうに手を払うと、お茶の入ったコップを持ってソファに座り込んだ。テレビをつける。 「……どうせなら、舜平さんに興味持たれたかったよ」 「えっ?」  ぽつりと呟いた千秋の小さな声を、キッチンにいた珠生は聞き逃したふりをした。千秋はテレビのボリュームを上げて、「何でもない!」と言った。 「ふうん」  珠生は、少し不機嫌になっている千秋の背中を見ながら、コーヒーを淹れる。  ――やっぱり、千秋、舜平さんが気になり始めてるな。  自分の予想が当たったことに、珠生は何故か喜ぶ気分にはなれなかった。  珠生は気づいていない。  舜平は自分だけのもの――そう、思っているという事実を。  

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