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六十八、もう一人の犠牲者

 夕暮れ時の明桜学園高等部。生徒会室。  生徒会長の間宮敬吾(まみやけいご)は、部活の帰りに生徒会室に立ち寄っていた。  間宮敬吾は、大人の期待を忠実に体現した男子高校生である。それを自分も自覚している。  頭脳明晰、成績優秀、スポーツも得意だ。大学受験のないこの学園において、敬吾はまだサッカー部の主将を続けていた。  中学からこの学園に在籍し、ずっとトップを走り続けてきた。  頭脳や運動能力だけではなく、敬吾はがっしりとした身体つきをしていたし、容姿も人並み以上に整っている。短く刈られた艶のある黒髪は、いかにもさわやかなスポーツマン風。きりりとした目元と太い眉は、実直な敬吾の性格を現すようだった。  しかし、高校に入ってからというもの、そんな敬吾の評判はすこしずつ霞んでいた。  斎木彰が高等部へ入学し、生徒会へと入ってきてから。  彼は中等部から高等部へと進学してきた内部生だ。中等部入学時から一貫してテストの成績はトップクラス。彼の名前を知らぬものなの、この学園には存在しない。  高校入学時、斎木彰の姿を一目見た瞬間、敬吾は彰が身にまとう大人びた雰囲気に恐れを抱いた。  すらりと背の高い、油断のない空気を持つ少年。それは高校一年生のもつ空気ではなかった。  そしてその頭の良さは、敬吾のように努力の賜物ではなく、天賦の才といっていいものであるということもすぐに分かった。  礼儀正しく、年上の生徒をうまく立てて立ちまわる彰は、理想的な賢い後輩そのもの。しかし、共に生徒会執行部で活動している敬吾だけは知っていた。  彰が、刃のような鋭い目を、穏やかな微笑みの下に隠していることを。  一目見た瞬間から、この少年は何か違う空気を持っていると思っていたが、それは敬吾が生徒会長になってから、さらに際立って感じられるようになった。  彰はいつも、敬吾の思考の数歩先を口に出す。また、問題が起こったときは、まるで敬吾には思いつかないような解決策を見出したりもする。そのため、教師たちですら、彰の意見を覆すことは出来ないのだ。  それでも、彰は昨年度からの名残か、つねに敬吾のことを目上の人物として立ててくれようとしている。  しかしそれは敬吾にとって屈辱でしかなかった。「こいつは俺をバカにしているくせに」と、常に感じていた。  更に悪いことに、彰は二年になってぐんと背が伸び、すらりとしたモデルのような体型になった。そのこともあり、女子生徒から急激にもて始めたのだ。  一方敬吾は、ずっと部活や勉強に励んできたため、女子の扱いが非常に苦手だった。そして、女子たちの間に根付いている真面目で堅物だという敬吾の評判はもはや覆しようがなく、女子たちも彼には率先して近づいてはこないのである。  斎木彰は、その涼しげな容姿や体格で女子生徒を惹きつけていたし、彼の口は女子たちと楽しげに喋ることができた。そして勉強している素振りもないのに、学年一位の成績を維持し続けている。  完璧な男だと思った。  憎たらしいほどに。  生徒会の会議があるとき、敬吾はいつも胃痛を感じた。彰を見ていると、自分のコンプレックスをまざまざと目の前につきつけられているような気分になった。それでもそれを、他の生徒会役員の手前、顔に出すわけにはいかない。それが尚更敬吾を疲れさせた。  敬吾はため息をつく。  連休のうちに、いくつか片付けておこうと思っている仕事があった。別に急ぎのものではないが、彰に分からないように処理しておいて、余裕のある所を見せたかったからだ。  あいつさえいなければ、自分はいつも堂々とトップでいられたのに。  教師や他の生徒達の前に、涼しい顔をして立っていられたのに。  さっきまで晴れていた空が、まるで敬吾の心を映すかのようにどんよりと曇ってきている。日が暮れ始めているせいか、どの雲もどことなく紫色に染まって見えた。  生徒会室の机と椅子に座ったまま、敬吾は空を見上げる。雨が降るかもしれないな……と考えた。  傘は持っていない、仕方がないから今日はもう帰ろうかと、敬吾は椅子を引いて立ち上がった。  ガタガタっと、生徒会室のドアノブが乱暴に回った。敬吾は驚いて、弾かれたようにそちらを見た。  ゴールデンウィークまっただ中、部活もすでに終了した時刻に、校舎内に残っている生徒は敬吾くらいのものなのに。怪訝に思った敬吾は、ドアに歩み寄ってガチャリとドアを開けた。廊下に顔を出すが、誰もいない。 「?」  暗い廊下には、何の気配もない。どういうわけか、紫色の霧が廊下の中にも立ち込めているように見えた。  カンカンカン……と、校舎のどこかで誰かが階段を登り降りするような音が、小さく響いている。  敬吾は少し気味が悪くなって、すぐに帰ろうと鞄を取りに部屋の中へ戻った。  そして、目を見張る。  そこには、紫色のもやが渦巻いていた。ちょうど、人一人の大きさくらいのもやが、ぐるぐると渦巻きながらそこにあった。 「……なっ」  ――……お前も憎いか。あの男が。  頭の中に直接響いてくるような低い声、敬吾は後ずさって、ドアに背中を打ち付けた。紫色のもやは、ずいずいと敬吾に近寄ってくる。  ――……俺も憎いぞ、あの、余裕たっぷりの顔。人を小馬鹿にしたようなあの目付き、そしてあの能力……。  ……腹が立つよなぁ、憎いよなぁ、目障りだよなぁ!  頭の中でどんどん大きくなるその声を聞くまいと、敬吾は耳をふさいだ。恐怖のあまり立っていられず、敬吾はその場に尻餅をついた。  ――……私が、殺してやろう……あの男を。その身を差し出せ……そうすれば、そうすれば……。 「うわあああ!!!」  敬吾の悲鳴をかき消すように、もやが敬吾の身体を包み込む。  ごろごろと、雷鳴が轟きはじめる。  生徒会室の電気が、ふっと消えた。

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