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六十九、恋しく思う

  ――熱い……血が熱い……  魔境の風に、血が沸き立つようだ。陀羅尼の声が、俺を誘う。   ――ともに魔境へ行かぬか……と。  上空に浮かんだ、薄緑色に輝く五芒星。  その中心に渦巻いている、夜空よりも暗い漆黒の闇の渦。  それは、魔境への道。 「あぁああああ!!!」  千珠はその渦に向かって、手を差し伸ばした。魔境の風が、自分をもさらってくれることを望みながら。  肌を刺し、皮膚を焼くような禍々しい風。腐った血と肉の匂いのする風。  喰らいたい、屠りたい……この手で、もっと血肉を裂いて血を浴びたいと、鬼の本能が叫び狂う。 「あああ……あああ」  千珠の赤い目は、その暗闇しか映してはいなかった。縦に鋭く裂けた瞳孔が、さらに細まる。    ――連れて行ってくれ……俺を、その腐った世界へ…… 「千珠!! しっかりせぇ!!」  天へ伸ばした千珠の腕を、力強く掴む黒装束の腕が見えた。  その腕が、魔境の風に焼かれて悲鳴を上げる。じゅうう……と肉の焼ける匂いが鼻をつく。 「お前の世界は……こっちやろ!!」  その言葉とともに引き寄せられ、誰かの胸に抱き込まれる。自分を包み込む嗅ぎ慣れた匂い、力強い体温。  ――舜海……。 「しっかりせぇ、千珠! もう終わったんや……!」 「うぅううう……ああぁううう」  沸き立つ血に抗い難く、頭を押さえてうずくまる千珠の背中を、舜海はぎゅっと抱きしめた。血の流れる自分の腕の傷など、何も感じないかのように。 「千珠、落ち着くんや……!」 「あぁあああ……!」 「俺には……何もできひんのか……!」  そんなことはない、耳に届くお前の声……確かに、聞こえているんだ。  俺が弱いから……こんなことで心を乱されてしまうだけ。  そんな声を出すな。自分を責めるな。悪いのは、俺なんだ。  お前は、俺の……  俺の……  +   +     珠生ははっと目を開いた。がばりと身を起こし、思わず天井を見上げた。  そこには魔境への穴が開いている訳もなく、ただいつもの見慣れた天井があるだけだった。  久しぶりに、千珠の昂る気持ちを感じた。  陀羅尼を魔境へ送り返した時に感じた、魔境の風。そしてその血の滾りを。  ぐっしょりと汗をかいていることに気づく。珠生はため息をついて、どさりと再び枕に頭を落とした。  皮膚を焼かれながらも自分を引き戻してくれた、あの舜海の腕の感触が蘇る。  自分を抱きしめて離さなかった、力強い腕。  珠生は目を閉じる。  舜平の顔がまぶたの裏に浮かんだ。  珠生を抱くときのあの強い目つきが、先ほどの舜海の必死な目と重なった。  舜海は、本当に千珠を大切にしていた。言葉で、肌で、感じていた。舜海の気持ちを。  珠生は胸の上に手を置いた。  舜平も、珠生を大切にしてくれているのが分かる。いつだって、舜平は珠生を見ていて、気を感じて、不安な時やつらいときにはそばに居てくれる。  舜平に抱かれている時、彼の指の一本一本、言葉のひとつひとつ、肌を撫でる掌の動きから、熱い気持ちを感じていた。しかしそれは、千珠の魂に刻まれた舜海からの愛情の記憶なのか、舜平自身の気持ちなのか、珠生にはまだよく分からないでいる。それがとても、もどかしい。  ――舜平さん……会いたいな。  昨日会ったばかりだというのに、何故か泣きたいほどに、舜平が恋しい。  夢のせいかな……と珠生は自分を納得させながら、浮かんでくる涙を拭う。  ――舜平さんに、求められたい。抱いて、欲しい。  千珠が彼の気を強く求めたように、今の珠生は舜平に抱かれることを強く望んでいる。 「……まさか、な」  珠生は起き上がって頭を振ると、立ち上がってドアを開けた。  まだ二人は起きていない。今は朝の六時だ。  珠生は目を覚ますためにコーヒーを入れようと、キッチンに明かりを灯した。  **** 「今日こそ京都観光に行くわよ」  トーストを齧りながら、千秋はそう宣言した。  あえて人ごみに出て行きたくない珠生は、げんなりした表情を千秋に向ける。その横で健介はにこにこと笑っていた。 「……どこ行きたいの?」 「えっとねぇ、南禅寺や蹴上の方に行ってみたいなぁ。水道橋だっけ、あれも見たいし……」 「意外と渋好みだなぁ、千秋は」 と、健介はコーヒーを飲みながらそう言った。 「その後四条河原町で買い物しようかなぁ」 「……」  珠生はため息をつくと、健介を見た。 「観光は父さんと行ったほうがいいんじゃないかな。父さんのほうが詳しいだろ?」 「えっ、でも……今日も仕事へ……」 「それ、明日でもいいんじゃないの? 千秋はこの数日しかいないんだよ」 と、珠生は食い下がる。  健介はそんな珠生と、健介がどういう反応に出るのか確かめようと、ぱっちりと目を開いている千秋を見比べた。 「……分かった。千秋、一緒に観光しようか」 「やったぁ!」 と、千秋は分かりやすく喜んだ。そんな様子を見て、健介もうれしそうに目尻を下げる。 「河原町はちょっと……つらいかな」 と、健介。 「そうだよね。まぁ、私も、父親連れでショッピングってわけにはいかないし。珠生、昼からならいいでしょ?」 「うーん……。人が多いんだもん」 「もう! この出不精! あーあ、舜平さんがついてきてくれたらいいのになぁ」  千秋は肘をついて、ため息混じりにそう言った。舜平の名前が出てきて、健介と珠生が驚いたような顔をする。 「相田くん? そんなに気に入っちゃったの?」  健介は複雑な表情で、目を瞬かせた。千秋ははっとして、頬をかいた。 「いや別に……あんなお兄さんがいたらいいのになぁって思っただけ」 「そうかぁ、うちの子二人共彼にお世話になりっぱなしだなぁ」 「……」  珠生は何も言えずに、黙ってトーストをかじった。 「ねぇ、聞いてみてくれない?」 と、千秋は珠生を拝むように手を合わせた。 「えっ。でも……昨日も遊んでもらったばっかじゃん。その前日は車で送ってもらったりしてるんだよ?」 「うーん、そうかぁ……そうだよねぇ」  そこまで厚かましくはなれないのか、千秋は諦めたように肩を落とした。そんな千秋を見て、珠生も心を決める。 「分かった、昼からは俺一緒に行くよ」 「ほんと?」 「うん。でも、手短にね。手短に」 「分かった! サンキュ!」  千秋は嬉しそうに笑うと、健介と出発の時刻などを話し合う。  元気だなぁ……と珠生はため息をついた。

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