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七十二、落下
「……結界が消えた」
珠生はそう呟いた。
爆音の後、パリン……と薄いガラスが割れるようなかすかな音がして、陰陽道の気道を塞いでいた結界が消滅する。
影龍の表情が、みるみる鬼のような形相に変わっていく。
「あの……役立たずが!」
彰の目が光った。素早く印を結んで影龍を睨みつけると、じゃらじゃらと金色の鎖が影龍の身体を一瞬で縛り上げてゆく。
「うぐっ……おのれ!!」
影龍の手から、ナイフが落ちる。珠生はそれを拾い上げて真っ二つに折ると、その場に放り投げた。カシャン、と乾いた音が響く。
「よくもまぁ、こんな弱々しい陣形で僕らに挑んできたもんだ」
彰は片手で印を結んだまま、影龍に歩み寄った。尚も、どくどくと血が流れているのを、珠生は心配そうに見つめている。
「……くそっ!」
ぬっと舜平もその場に現れて、影龍の顔が更に強張る。彰に膝をつかされて、影龍は悔しげに歯を食いしばった。
「佐為、血が……。俺と替われ」
と、舜平が彰の肩に触れた。
「ん……ああ、そうだな。頼む……」
彰は舜平をちらりと見て、少しふらつきながら後退する。しかし舜平が印を結んだ瞬間、影龍は真っ青な顔をしている彰の身体に思い切り体当たりをして、もつれ合うように床に転がった。
「待て!」
脱兎のごとく逃げ出した影龍を、珠生が追う。
白い校舎の長い廊下を、影龍は一直線に走った。珠生はたんっと廊下を蹴ってふわりと一回転すると、身軽に影龍の前に降り立った。
「!」
目の前に現れた珠生の姿を見てぎょっとしていたが、素早く影龍は印を結んだ。
しかし、術を発動させる前に、眉間にぴたりと宝刀を突きつけられて黙り込む。鋭い切っ先を目の前に、影龍は歯を食いしばって珠生を睨みつけた。珠生の目は穏やかで、それが逆に影龍の神経を逆なでする。
千珠と直接相まみえたことはなかったが、今目の前にいる華奢な少年があの子鬼の千珠だということは、はっきり分かる。
自分に向けられている妖気の鋭さと、美しい容姿。そして、この宝刀。猿之助が、ずっと忌々しく思っていた目障りな存在。
「大人しくしておけ」
珠生がそう訴える。背後に、もう一人気配を感じて振り返ると、背後に舜平が立っていた。
「猿之助はどこにいる」
珠生は落ち着いた声でそう尋ねた。眼の前に向けられた宝刀はそのままに、影龍は小柄な珠生を見下ろした。
「……俺が吐くと思うか」
「その身体に、手荒なことはしたくない。でも……お前の魂を滅ぼすことは出来る」
「……ああ、君を犯そうとして失敗した、あいつのように? 千珠さまの無茶な妖気に焼かれたそうだな。よほど恐ろしかったのですね、千珠さま。こんな幼気な御姿になってしまいましたものな」
「……猿之助はどこだ」
珠生の声が、少し低くなった。目付きが少し厳しくなる。
影龍はにやりと笑った。
「あなたは現世でもなんと愛らしい。さぞかし喜んでいたでしょう? あの下品な男は」
「黙れ」
珠生の表情が嫌悪に歪み、宝刀を握る手に力がこもる。影龍は珠生の心の揺れを見逃さず、楽しげにほくそ笑む。
「縛」
背後から、舜平の声がそう唱えた。再び金色の鎖に雁字搦めにされた影龍は、よろめいて廊下の壁に背をついた。
「お前は業平様に渡す。素直に言う気にはならへんみたいやしな」
「……ふん、業平に何ができる」
影龍は吐き捨てるようにそう言うと、ついとそっぽを向いた。珠生はきつく眉根を寄せて、じっと影龍を見つめている。
「お前は、そんなにも猿之助の役に立ちたいのか」
「当然だ」
「何故だ?」
「何故か、だと? 俺は昔から、猿之助様のあのお力にずっと憧れていた。あの方は強い、誰よりもな! 力こそが正義だろう! だからこそ、我らは都を守らんがために攻めの姿勢を貫いてきた。なのに朝廷は我らのやり方を認めなかった。猿之助様のやり方を、否定した……!」
「猿之助は、多くの犠牲を生んだからや。陀羅尼や夜顔のこと、忘れたとは言わせへんで」
印を結んだままで、舜平は静かにそう言った。影龍は鋭く舜平の方を見遣る。
「必要な犠牲だ。何をためらうことがある。悪を滅する為により強い悪を御する、これのどこに間違いがある? しかもこれは、陰陽師にしかできぬことだ。誇り高き我らの力をもって、都を守護する。これのどこに誤りがあると!?」
「……もういい、黙っとけ」
「貴様らに何が分かる!」
珠生はすっと宝刀を降ろした。舜平はそんな珠生に目をやった。
「……そうだな、分からない」
静かにそう呟いた珠生を、影龍は見下ろした。
「でもお前が、一度死してもなお、猿之助を慕い続けていることは、分かった」
「なんだと」
「猿之助の無念をともに晴らそうとしている……そういうお前の気持ちは分かった」
「……何を」
影龍の目が揺らいだ。珠生は透明な目で、じっと影龍を見上げながら続けた。
「……でも今更、都を滅ぼして何になる。肉体を持たぬお前たちが、この現世に何を望む」
「……貴様には、関係ない」
「関係なくはない。俺たちは、現世でも都を守っていたい。しかし猿之助はただ、やり場のない怒りと恨みを振り回して、ただ現世を混乱させたいだけだ。あの頃の大義名分なんて、もう持ってないんだ。猿之助のそばにいるお前になら分かるだろ?」
「……」
影龍はぎゅっと目をつぶって俯いた。舜平は用心深く、そんな二人のやり取りを見守っている。
「止めたいんだ、猿之助を。あいつも、形は違えど都を愛し、守護しようとした陰陽師だ。しかし今は、ただ私怨を晴らしたいがためだけに存在する怨霊だ。放っておけば、あいつは悪に堕ちるだけ」
「……止める、だと」
「今なら間に合う、お願いだ、力を貸してくれ」
影龍の目が、すっと我に返るように光を取り戻した。ずっと眼の奥に渦巻いていた紫色の光が消える。舜平は目を見開いて、そんな影龍の変化を見つめていた。
「猿之助様を、止める……と?」
「そうしたい」
「そうか……」
影龍はうなだれて、寄りかかっていた壁に頭をもたせかけた。疲れたような表情だったが、どこかすっきりとした安堵の表情にも見えた。
珠生はじっとそんな影龍を見上げて、何か物言いたげな表情をしている彼の言葉を待っている。
その時、キィィィンと耳に鋭く突き刺さるようなかすかな音が聞こえた。それはみるみる大きな音になり、珠生は思わず耳を塞いだ。
「なんやこれ……! 耳が、痛い」
舜平も顔をしかめているが、印を結んでいるため耳をふさげない。
「うぅうう……うぅううう……」
影龍が不意に呻き声を発し始めていた。眼がどろりとにごり、まるで操られた人形のように、ふらふらと脚を動かす。
「おい……どうしたんや」
「がぁああああ!!!」
影龍は涎を振り撒きながら、闇雲に舜平に襲いかかった。珠生は咄嗟に舜平を突き飛ばして、影龍の前に立ちはだかる。
じゃらじゃらと金色の鎖が外れた影龍は、目の前に立っている珠生に組み付き、その小柄な身体を振り回して床に叩きつけた。
それは抗えない圧倒的な力で、珠生は歯を食いしばってどうにか受け身をとったが、床にぴしっとひびが入る。
「……ぐぅっ!くそっ!」
「珠生!」
「縛れ!!」
「お、おう!」
舜平が印を結ぶか結ばないかのうちに、影龍はまた走りだした。二人が慌てて後を追うと、影龍は廊下の突き当りの窓へと、迷わずに突っ込んだ。
「なっ!」
全身で窓ガラスを突き破り、影龍の身体が宙に踊った。ここは四階、落ちれば、間宮敬吾の身体は無事では済まない。
「あかん!!」
舜平は迷わず窓枠に脚をかけると、壁を蹴って間宮の身体を追った。舜平と間宮の姿があっという間に見えなくなり、珠生はぞっとして下を覗き込む。
舜平は宙で間宮の身体を引き取めると、自分がその下になるように抱え込み、そのまま真っ直ぐに落下していった。
ずん、という重い音が珠生の耳に響く。
遙か眼下に、もつれ合って倒れる二人の姿が見えた。
「舜平さん……!!」
珠生は真っ青になって、自分も窓から身を躍らせた。すと、と軽い音を立ててその場に立ち、急いで舜平と間宮に駆け寄る。
窓の下は駐車場だ。舜平が敬吾の下敷きになって、車の屋根の上に横たわっていた。
人間二人を受け止めた車の屋根は大きくへこんで、けたたましく車の防犯アラームが鳴っていた。
「舜平さん!」
珠生は車の屋根の上にひょいと飛び乗ると、まずは敬吾の身体を抱え起こしてコンクリートの地面の上に転がした。その次に舜平のぐったりとした身体を車の屋根から引っ張り起こして、腕を肩に回して何とか引きずり下ろす。
地面に寝かせた舜平の上に屈み込むと、意識のない舜平の顔をのぞき込む。ぴたぴたと頬に触れて、身体を揺さぶった。
「舜平さん……! しっかりしてください。舜平さん!!」
「う……」
「舜平さん!」
呼吸はしているが、この車の有り様を見ると、体の方はどうなっているか分からなかった。珠生は泣きそうな顔で、舜平を見下ろした。
「あ……いってぇ……」
ゆっくりと身じろぎして、舜平がそう呟いた。珠生ははっとして、舜平に顔を寄せた。
「舜平さん、分かりますか?」
「た……まき……」
「すぐ、救急車呼びますから」
「ちょ……待て、あいつは……? ガキは……?」
舜平の言葉に、珠生ははっとして間宮敬吾の方を見た。間宮の方も微かに身体を動かして、意識をとりもどしている様子だった。
珠生は間宮の方に膝をつくと、その胸の上に手を置いて軽く揺さぶった。
「……あの、大丈夫ですか?」
「……うう……」
間宮敬吾は痛々しい顔をして、ゆっくりと目を開いて珠生を見た、珠生は安堵して微笑む。
「あ……君は……」
「それは後で。とりあえず、病院へ行きましょう」
車の警報音によって、職員室から二人の教師が駆け出てきた。地面に転がっている二人と、べっこりとへこんだ車を見て、大人たちがあんぐりと口を開く。
「沖野じゃないか! お前、な、な、何してんだ」
と、担任の若松が珠生に気づいて駆け寄ってくる。
「先生……!? いや、あの……」
珠生がもごもごと言葉に窮していると、若松は珠生の後ろに転がっている舜平に気づいた。
「あ、彼はあの時の」
「はい。その……」
――やばい、どう説明すればいいんだ。珠生は混乱してくる頭で、必死に考えた。
「斎木くん……! どうしたの!」
背後で女性教師の悲痛な声が聞こえてくる。珠生と若松もそちらを見やった。
首の傷を押さえて、シャツを赤く染めた彰が、ふらりと現れたのだ。彰は珠生たちが生きていることを確認すると、安堵したように少し笑った。
「すいません……ちょっと、トラブルに巻き込まれちゃって」
と、彰は駆け寄ってきた女性教師にそう言った。
「一体どういうこと!?」
「とりあえず……間宮先輩も怪我をしているようなので、僕らを病院へ行かせてください。ちゃんと説明しますから……」
「そ、そうね」
女性教師は救急車を呼ぶべく、校内へと駆けていった。若松もそれに倣ってか、ばたばたとその場からいなくなる。
彰は珠生のそばに座り込み、間宮の顔を覗きこんでから、舜平を見た。
「影龍は逃げたようだね……」
「はい」
「来てくれて、助かったよ。よく分かったね」
「先輩の姿が、見えたような気がして」
「そう……良かった」
彰は舜平の方に膝をついて、胸の上に手を置いた。舜平がうっすら目を開いて彰を見上げる。
「こんな無茶をして、君は本当に昔から向こう見ずだ」
「……やかましい」
かすれた声でそう言った舜平に、彰は笑みを浮かべてみせる。
「でも……ありがとう。間宮先輩は無事だ、君のおかげだ」
「……はは……そか」
舜平は目を閉じて、口元だけで笑う。
珠生はもう一度舜平の顔を覗き込んだ。
苦しげに呼吸する薄く開いた唇と、閉じられた瞼を見下ろして、ぎゅっと唇を噛む。
あそこで、自分が余計な話をして隙を与えなければ、舜平は怪我をしなかった……珠生の頭の中には、そんな考えが浮かんでいた。
――ごめん……、舜平さん。こんな怪我をさせて……。
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