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七十三、握られた手

 帰宅しても珠生がおらず、連絡が取れないことを心配していた千秋と健介であったが、午後三時頃になってようやく、珠生の無事を確認した。  病院にいる、というその言葉に仰天した二人は、急いでタクシーで総合病院まで駆けつけた。  受付で場所を聞き、病室へ向かう。するとその病室のベッドに横たわっているのは、相田舜平であった。  その枕元で、沈んだ表情をしている珠生。病室の窓に寄りかかっているのは、血まみれのシャツと首元に巻かれた白い包帯の痛々しい、斎木の姿。 「お父さまですね。私、沖野くんの担任の若松です」  病室のドアの横に、若い男が立っており、健介に小さく頭を下げた。一度面談で見たことのある顔である。 「これは……一体どういう状況ですか?」 と、健介は困惑した表情で尋ねた。若松は健介を廊下へ誘うと、病室のドアを閉めてベンチに座るように身振りで促す。 「学校でトラブルがあったようで……」  若松は重々しい口調で説明を始めた。その内容は、彰から言い含められた内容そのままである。    明桜学園に現れた通り魔が、生徒会の仕事がらみで学校に訪れていた生徒会長の間宮敬吾と副会長の斎木彰を襲ったと。  間宮が通り魔と揉み合いになっていたところに、斎木彰と会う約束をしていた珠生と舜平が現れた。そして、間宮を助けようとした舜平は、通り魔ともみ合っていた間宮と共に四階から転落。舜平が間宮の下敷きになるように落下したため、間宮にはほとんど怪我はないが、その代わりに舜平が全身を強打しており、入院が必要であるということ……。  そんな話を彰から聞かされた若松は、あまりの出来事にほぼほぼ思考が停止してしまい、それらの情報を飲み込む事しか出来なかった。警察に通報を、と若松は彰に食い下がったが、彰は頑なにそれを拒んだ。「この学校は最近色々と事件が続いている。それはとても不名誉なことだ。これ以上騒がれたくない」と、言うのである。  傷害事件に発展しているこの件をこの場だけに納めるのは非常に難しいと言ったのだが、決然とした斎木の態度に、若松はひとまず黙ることしか出来なかった。  更に面倒な事に、舜平と敬吾が落ちた車から、大量の盗撮テープが発見されたのである。その車は、数学教師の山辺弘明のものだった。  彰は若松に、そちらの件を優先して処理して欲しいと頼んできた。血まみれの彰のぎらついた目に見据えられると、生徒に頼まれているというより、むしろ上司に命令されているような気分になった。  その場に一緒にいた女性教師・緑川は、この学園に長く勤めるベテラン教諭である。生徒会担当ということもあり、彰とは信頼関係の深い教師のひとりだ。加えて緑川は、この学園の誇りと名声を何よりも大切に思う女性であったため、若松よりもすんなりと彰の説得に応じていた。  この件について、校長ら上層部へ話をつけるのは緑川の役回りとなったため、若松が病院へ付き添い、保護者への説明を行うことになったというわけでなのである。 「あの、それより、珠生……うちの子も怪我をしているのですか?」 と、沖野珠生の父親は、しどろもどろの若松の説明よりも、珠生の安否を気にかけている。それは当然のことであろう。  若松は、珠生自身は背中に打撲があるものの、大した怪我ではないことを健介に伝えた。健介はホッとしたように長い息を吐き、疲れた表情を浮かべて汗を拭う。 「……すいません。長らく家族から離れていて……こんな時どうしたらいいのかわからなくてね」 「そ、そうですか」 「とりあえず、珠生を連れて帰りたいな……本人からも、話を聞きたいし」 「そうですね。では、改めて病室の方へ……」  二人が病室のドアを開けると、中では子どもたちだけで何かを話している様子だった。  健介はドアとベッドを仕切るカーテンを開けた。    *    健介と若松が廊下へ出ていってしまうと、千秋は所在無げに病室の中に立っていることしかできなかった。  ベッドに横たわった舜平の顔は苦しげで、熱が出ているのか少し呼吸も浅い。そして、その枕元で千秋に背を向けて座っている珠生の後ろ姿は、声をかけづらい雰囲気を醸し出している。窓際で腕を組んでいる斎木彰も、疲れた顔をしていた。 「あの……みんな、大丈夫……?」  千秋はおずおずと、三人に声をかけた。彰は千秋の存在に始めて気がついたかのようにはっとすると、場を取り繕うような表情で微笑んだ。 「ああ、千秋ちゃん。うん、大丈夫だよ。舜平の打撲もすぐ治る」 「なんで、こんな……」 「大丈夫、こいつは頑丈だから。それより、珠生は大丈夫?」  彰は、じっと押し黙っている珠生に気遣わしげな視線を向けた。珠生ははっとして、顔を上げた。 「あ、はい……湿布で治るって言われました」 「珠生……あんたも怪我したの?」  千秋の声に、珠生はくるりと後ろを振り返った。千秋は珠生の痛々しい表情に気づき、どきりとする。  こんな顔をした珠生を、今までに見たことがなかった。  珠生はいつも冷静で淡々としていて、その顔に激情が現れるということは滅多になかったからだ。 「俺は……大丈夫。俺のせいだ……俺があんな隙、作らなかったら……舜平さんは」 「珠生、それは違うよ」  彰の声が、何か言いかけた珠生の言葉を遮った。珠生は彰を見上げて、また俯く。 「君はできることをやったよ。僕を助けてくれたし、間宮先輩も無事だ」 「……うん、でも……」 「そんな顔してたら、舜平が気に病むぞ」 「……はい」  二人にしか分からないようなやり取りをした後、珠生はまた黙りこんで舜平の顔を見つめている。  珠生が一体何をそんなに後悔しているのか、千秋にはさっぱり分からなかった。  それよりも、珠生の白い手が舜平の日に焼けた手をしっかりと握り締めていることが、気になって仕方がなかった。  悲しげに舜平の顔を見つめる珠生の横顔はひどくつらそうだったが、そこには確固たる強い絆のようなものが見えた気がして、落ち着かなかった。  珠生の横顔は、すごくきれいだ。  自分と同じ顔だったはずなのに、千秋が見ていてもどきりとするくらい、珠生の中の何かは確実に変わっている……そんな気がした。  千秋は何も言えず、ただ二人を見ていることしか出来ないでいた。  そんな時、健介と若松が病室に戻ってきた。息苦しかった空間に、自分と同じ部外者が戻ってきたことにほっとする。早く、ここから出たかった。 「珠生、とりあえず、私たちは帰ろう」 と、健介が珠生の肩に優しく手を置いて、そう言った。珠生は潤んだ大きな目を健介に向けて、もう一度舜平の方へ目を落とす。 「舜平のご両親には、僕から連絡しておきます。珠生は一度、帰ったほうがいいんじゃない?」 と、彰もそう促す。 「いいえ……俺ももう少し、ここにいます」 「珠生、お前もひどい顔だよ。一緒に帰って、休まないと……」 「いいって言ってるだろ! 俺、ここにいたいんだ!」  食い下がる健介に向かって、珠生は声を荒げてそう言った。感情を露わにする珠生の姿を始めて見る健介と千秋は、驚きのあまり顔を強ばらせている。 「珠生……お前、どうしたんだ」  健介は戸惑いを隠せない様子だ。動揺する父親を見て、千秋は健介の腕を引っ張った。 「父さん、先に帰ろう。珠生はああ言い出したら、聞かないから」 「え……? ああ……」 「行こう」  千秋にぐいぐいと腕を引かれて、健介はドアへと連れて行かれた。千秋は廊下へ出る前に、ちらりと珠生の背中を振り返る。  こちらを見ない珠生の背中。千秋は漠然としたやるせなさを感じながら、ドアを閉めた。 「僕も……見送りに行ってくるよ」 と、若松もすぐにその後を追って出ていった。  健介は困惑した表情のまま、千秋にずるずると腕を引かれて歩いていた。その後から、若松もついてくる。 「どうしたんだろう……一体」 と、健介は困り切った顔でため息混じりにそう呟いた。 「俺のせいだ、って言ってた。何か、珠生が責任を感じるようなことがあったんだよ、きっと」 「え? ……でも、何だろう。あの調子じゃあ、しばらくは教えてくれないだろうなぁ……」  健介は頭を押さえて途方に暮れている。千秋はそんな健介のつぶやきを聞きながら、珠生が握りしめていた舜平の手の大きさを思った。  ――何で珠生が舜平さんと、あんなこと……。  若松と健介が、また後日連絡するというようなことを話し合っている間も、千秋はもやもやと晴れない心を抱えてうつむいていた。  

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