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七十五、猿之助の居場所

 大阪との県境にあるとある工場跡にある廃ビルの中に、梨香子は佇んでいた。  外見は茶色く染めた髪の毛をふわふわと巻き、ばっちりと今時の化粧を施した隙のない顔をした女子大生。しかしその表情には若い女独特の華やかさなど微塵もない。ただただ、冷たく人を嘲るような色が浮かんでいるだけである。 「なんというザマだ、影龍(かげたつ)」  梨香子の姿をした猿之助は、霊体の状態で戻ってきた影龍にそう言い放った。影龍の背後には、黒い狩衣姿の長壁弓之進も控えている。年若い弓之進は、猿之助に対する恐れのあまり、がたがたと震えていた。  その廃ビルのがらんとした空間には、数人の男がそこここに佇んで、暗い目で二人を見ている。皆、猿之助が現世に蘇らせた佐々木派の者たちの魂だ。 「申し訳ありません……」 「全く、何のために、私の貴重な霊気を割いてまでお前を蘇らせたと思っている。業平の手先どもを一匹でも減らすためだ」 「分かっています……」 「分かっているなら、なぜおめおめと戻ってきたのだ?」  梨香子は可愛らしい黒のサンダルを履いた小さなつま先を影龍の方に向けて、仁王立ちした。影龍の霊体が、ぴくりと揺れる。  霊体の姿では、まともな人の姿を保てない。もやもやと紫色の霧の中で、前世の影龍の容姿が見え隠れしている。それでも、影龍が猿之助の霊気に怯えているのが伝わってくるほどに、彼の顔は蒼白だった。  梨香子は影龍の胸元にすっと手を伸ばすと、ぎゅっと拳を握った。影龍が苦悶の表情浮かべて目を見開き、胸を押さえて身体を半分に折る。 「うっぐ……あああっ!!」  梨香子の手は、影龍の魂の核を握り締めているのだ。それを握りつぶされれば、その魂は未来永劫その存在を失ってしまう。もだえ苦しむ影龍の背後で、弓之進が震え上がった。十七歳だった弓之進も、紫色の霧に身体を包まれてがたがたと震えている。まだ幼さの残るその顔に、恐怖がはっきりと刻まれていた。 「……っあぁあああ!!」 「役に立たん奴だ。もう、死ぬか?」 「ぐあぁあああ!!」 「お、おやめください!」  震える声で、弓之進がそう叫んだ。梨香子は冷ややかな目線を下げて、弓之進を小うるさそうに見下す。 「弓之進、ではお前が代わりに死ぬか」 「わ、私は……それでも構いませぬ……! 私より、影龍様のほうが数倍も猿之助さまのお役に立てるのですから……」  弓之進の言葉は尻すぼみになり、最後の方は影龍の悲鳴に掻き消されて、猿之助の耳には届いていなかったかもしれない。  しかし、梨香子は握っていた拳をぱっと開いて、影龍を解放した。 「がはっ……はっ……は……弓之進、おまえ……何を」  埃っぽい床に手をついて、影龍は汗と涎と涙で濡れた顔を弓之進に向けた。弓之進は不安げに目をぱちぱちとさせながら、跪いたまま影龍を見つめている。 「わ、わたしが……結界を破られたのがいけないのです……」 「貴様は黙ってろ……これは、俺の責任なのだ……」  胸を押さえて、喘ぎながら影龍はそう言った。そんな二人を、梨香子は腕組みをして冷ややかに睥睨している。短い花がらのスカートが、すきま風に微かに揺れた。白い足が暗闇に浮かび上がる。 「影龍、部下に助けられるとは情けない。お前を殺す気が失せた」 「……」  影龍は床についていた腕に何とか力を込めると、上半身を起こした。弓之進が更に小さくなる。 「もっと……霊力の強い憑坐を探して憑依しろ。それも……あいつらに近い人物にな」 「……はい」 「知っているか、あの子鬼の生まれ変わり……双子の女がいるらしい」 「双子……ですか」 「もっと近くで張っていろ。きっと面白い物が見られるぞ」  梨香子は再び窓の外に顔を向けて、唇を釣り上げてにやりと笑った。 「舜海と千珠どの……現世でも、奴らの周りでは色々と面白い事が起こるものだ。この女につけてもな」  梨香子は暗い窓ガラスに映る、自らの華やかな容姿を見つめながら、ほくそ笑んだ。 「どうしてあいつらは、舜海という生臭坊主の生まれ変わりをめぐって、こうもつまらぬ争いをするのかねぇ……」 「あの男……ですか」  影龍の脳裏に、間宮の身体を庇いこんで一緒に落下していった相田舜平の表情が浮かび上がる。必死にあの憑坐を救おうと、考えなしに飛びついた無謀な男。 「そう。この女も、あの男と千珠どのの関係を嗅ぎとったのだ。色恋沙汰には付け入り易い上に、この女の元々の気質が私には心地いい」  影龍はふと、珠生の言葉を思い出した。  ――今さら都を滅ぼして何になる……。  窓ガラスに映る猿之助の表情は、ただ楽しげに見えた。  昔のように、都を思いながら裏切られ、その憎しみに突き動かされていたような猿之助の表情とはまるで違った。あの頃は、たとえ朝廷を敵に回しても猿之助についていこうと思っていた。  猿之助の思想を実現したいと、影龍自身も思っていたからだ。猿之助の姉、雛芥子(ひなげし)の不憫さを、自分も感じていたからだ。  しかし、珠生の言葉を聞いてから疑問をいだいた。  もはや肉体を持たない自分たちが、このめまぐるしい発展を遂げた現世の都を滅ぼしたところで、何が変わるというのか。猿之助が何を実現しようとしているのかも、今となっては分からないというのに……。 「弓之進もだ。いいな」 「……はっ」 「さっさと行け」 「はい……」  影龍は重い返事をすると、弓之進を伴って姿を消した。  梨香子は二人の影が窓ガラスから消えたのを見て、また視線を空へと向けた。  * *  午前二時。珠生は目を開いた。  今夜も、業平との約束がある。  業平は、今日の出来事について何と言うだろうか。  彰にはどんな言葉をかけてやったんだろうか。  珠生はそんなことを考えながら、上着に腕を通した。  からから、と窓を開けてベランダに出ると、スニーカーを履いてひょいと手すりの上に乗る。そして、ふわりと宙に身を翻した。  たん、とコンクリートの地面に身軽に降り立つと、しんと冷えた空気の中を走った。  背中の傷は、もう癒えていた。  舜平のことが気になったが、それを振り切るように首を振り、珠生は風のように町を抜けて、比叡山へと向かった。      藤原修一は、今夜は彰を連れて現れた。葉山は舜平の護衛につけたという。  久しぶりに藤原の側に控えている彰の姿は、やはりしっくりとくる。彰は包帯を巻かれた首を隠すように、洒落たストールを巻いていた。 「聞いたよ、珠生くん。色々と大変だったね」 「いいえ……すみません。俺、余計なことを」 「そんなことはないさ。君の思いが彼らを撹乱できたら、こちらとしても願ったり叶ったりだからね」  藤原の言葉が、少し引っかかる。そう言う考えのもとで、影龍に言葉をかけたわけではないのに……。  業平も彰も、珠生の表情の揺れに気づいていたが、何も言わなかった。 「君は優しい子だ。千珠さまのやり方とは少し違えど、君の魂は今も清廉だね」 「……」  何も言わない珠生に、藤原はかすかに微笑んだ。手を上げて、結界を張るように彰に合図をする。  葉山の結ぶ結界術よりも強固なものが三人を包み込む。暗闇の中、珠生はじっと藤原を見据えた。 「しかし、少し考えが甘いようだ。情に流されず、私が行くまであのまま影龍を捕縛しておくべきだった」 「……分かっています」 「まぁ、昔から千珠さまは情には脆い方だったからね……そこがきみのいいところでもあるのだが」 「フォローはいいです。俺が、余計なことをしたんですから」 「そうか。ならば、情に流されなくともいいくらいに、力をつけてもらおうかな」 「……はい」  業平が印を結ぶやいなや、かっとその姿から光が迸る。珠生も咄嗟に宝刀を抜いて、身構えた。 「縛道雷牢!!」  珠生の足元から、金色に光る頑強な牢が現れた。がしゃん、と大きな南京錠が生まれて、がっちりと施錠される。閉じ込められた珠生はその牢の大きさと強さに目を見張り、あたりを見回してそこから逃れる方法を探した。 「これは陰陽師衆の基本的な術で、皆が好む技でもある。これを、君はどうかいくぐるかな」  珠生は宝刀を握りしめ、その頑強な格子に斬りかかったが、鉄の弾ける音がするだけでびくともしない。ふと、珠生は夜顔がこの牢に囚われた時の状況を思い出した。  夜顔は格子に手をかけて、めきめきとそれを破壊して脱出した。  斬撃ではなく、この術自体に妖気を送り込むことでこの術を解くという力技であろう。斬撃が通じないということはすでに試した。珠生は宝刀を地面に突き立てると、ぎゅっと格子を握りしめた。  ぐっと拳に力を込めて目を閉じる。  目を閉じていると、先ほどの藤原とのやり取りや、影龍と交わした言葉が蘇る。  負傷した舜平の苦しげな顔と、甘かった自分の行いへの悔しさ。  かなりの傷を負っているのにもかかわらず、いつもと変わらず自分を励まし、状況を整理すべく立ちまわってくれる彰の笑顔。  千秋の気持ちと、舜平への自分の思い。  無力な自分への苛立ち。  じゅうううう……と格子を握った珠生の手から、煙が立ち上る。  珠生は目を開いた。  その目は琥珀色にきらめき、常人よりも縦に長い瞳孔がすっと細くなる。  珠生はその目を、じっと藤原に向けた。藤原は腕組みをして、そんな珠生の目を見返していた。 「こんなもの……足止めにもならない」  珠生がそう言うと、ばしゅうっつと空気が破裂する音とともに、まるで蒸発するかのように牢が溶けて消えた。  握りしめていた手を開くと、ぼたぼたっと藤原の霊気の残渣が地面に落ちる。  藤原はにやりと笑った。 「そうきますか。力押しですな」 「刃が通じない技だから。俺は術を持たないので、こういうやり方しか出来ません」  珠生は地面に突き立っていた宝刀を抜くと、無形の位に構える。藤原は微笑んだまま、「あの硬度を素手で消されると、こちらも少し傷つくのですがね」と言った。 「次、行くよ」 「どこからでも」  二人は暗がりで向かい合い。鋭い視線をぶつけあう。  珠生の目は、月光を受けて尚も琥珀色にきらめいている。  彰はじっとそんな珠生の姿を観察していた。  在りし日の千珠に近づいていく、珠生の姿と妖力。しかし、その心は人間として育った珠生の人格が揺らがずにそこにある。  ――珠生、君はそれをどう感じてここに立っている。どう受け止めて生きていく。  彰は藤原に食らいつく珠生を見つめながら、そんなことを考えていた。  

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