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百三、高まる気

 バックミラーで、完全に眠っている様子の千秋を見て、舜平は微笑んだ。  大人っぽい格好をしていても、中身は高校1年生の子どもだ。ふと隣を見ると、珠生は傷が痛むのか、少し辛そうな顔をして目を閉じている。 「痛いんか?」 「……うん。十六夜で、だいぶ妖気持ってかれたからなぁ……」 「せやな。後でちょっと、気ぃ高めたろか?」 「うん……え? それって……あの……するの?」 「……え? ち、ちゃうちゃう!! やらへんで!! 高めるってのは、ええと……口移しでっていうだけで、」 「あ、あぁ……うん、そうだね……」 「その……ほら、もう少し回復しとかな、先生に会えへんやろ、そんな顔色じゃ心配される」 「……父さん、か」  優しい父の笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。珠生は微笑んだ。 「父さん、目を覚ましたらまたショック受けるんだろうな。千秋をほっぽって研究室に泊まっちゃったって」 「ははは、ほんまやな。ちゃんとフォローしたってや。最近子育てに悩んだはるから」 「子育て、か。そうだよね、俺、父さんの子だもんね」 「そうやで」 「舜平さんのお父さん、面白いね」 「あれはただのアホや」 「はは、そういうのが面白いよ。親子なのに、友達みたいだ」 「そうかぁ?」 「術式まで一緒にやるんだ。すごいことだよね」 「……お前も昔はそうやったやん」 「あ、そっか」 「千瑛殿も相当な親バカやったけど、先生も相当やな。お前は愛されてんな」 「うん、そうだね……感謝してる」 「そうか」  人気のない早朝の道を、車は止まることなく順調に走った。  信号は全て青だ。  気持ちのいい朝の風を、珠生は車窓から胸深くにまで吸い込んだ。  護られた空気。  夢で見た、懐かしい風景が蘇る。  珠生は微笑みを浮かべ、流れていく景色を眺めていた。  +    舜平は本気で寝入っている千秋を抱えて、家まで連れて上がってきた。  千秋はよほど疲れているらしく、和室に敷いた布団に寝かされても、ピクリとも動かなかった。すぅすぅ、と平和に寝息を立てている千秋を見て、珠生は安堵していた。  舜平も、そんな二人を見て微笑んでいる。 「お前も、とりあえず着替えろ。ひどい格好やで」 「あ、うん」  珠生は立ち上がり、自室へ入って着替えをした。部屋着のジャージを履き、長袖Tシャツを着込んで部屋を出ると、千秋のそばに座り込んでいた舜平が珠生を振り返る。 「何か飲む?」 「あ、じゃあ……水、くれるか」 「うん」  珠生はペットボトルから水をグラスに注ぐと、ダイニングにやってきた舜平に手渡した。喉を鳴らして一気にそれを飲み干す舜平を見て、自分も喉が渇いていることに気づく。  舜平が空けたグラスに水を注ぎ、珠生もキッチンで水を飲み干した。  息をつく。細胞が潤っていくのが感じられて、ようやく何か一つ仕事が終わったような気持ちになった。 「さて、俺も、帰ろかな」 「うん……気をつけて。居眠りとかしないでくださいね」 「はは、ここまでやって、居眠りで事故ってたら世話ないよな」  舜平は立ち上がりながら笑ってそう言った。珠生も苦笑する。  玄関先まで舜平を見送ろうと、マンションの暗い廊下を珠生は裸足で歩いた。舜平はスニーカーを履いて、ふと珠生に向き直る。  そしてそのまま、薄暗い玄関で、舜平は珠生を力強く抱きしめた。 「ちょっ……」  千秋がいるのに……と言いかけた珠生の口を、舜平の手がやんわりと塞ぐ。耳元で、舜平が囁いた。 「傷……治さな」 「あ……」  舜平を見上げると、黒い瞳と目が合った。その強く優しい瞳に見据えられれば、涙が出そうになるほど安堵する。珠生はうっとりと舜平を見つめて、そっと舜平のシャツをつかんだ。 「声……出すなよ」  舜平の低く囁く声に、ぞくりとする。舜平は珠生を廊下の壁に押し付け、顎に右手を添えて上を向かせると、そっと珠生の唇を塞いだ。  壁と舜平に挟まれた狭い空間の中で、珠生はゆっくりと目を閉じた。暖かく、鼓動を持った舜平の霊気が流れこむのを感じる。  珠生の目を、涙が伝う。  ――胸を締め付けられる、この想いは何だろう。  どうして俺は、こんなにもこの人に惹きつけられてしまうんだろう。何故、触れられるだけで、いつも涙が溢れる……。  不意に、舜平が唇を離す。珠生の涙を見て、舜平は優しく微笑んで囁いた。 「また……泣いてんのか」  珠生は仰のいたまま、黙って首をかすかに振った。そうすることで、また珠生の目から一筋涙が滑り落ちてゆく。 「明日……千秋ちゃん帰んねんな。京都駅まで送ったろか?」 「え?」 「その後、俺と……来るか?」  珠生を間近で見つめる舜平の目は真剣だった。眉根を寄せ、なぜか少し辛そうな表情を浮かべて、舜平は更に囁いた。 「病院での続き……したる」 「あ……」  入院していた時に、珠生が舜平に言った台詞が蘇る。珠生は心臓を鷲掴みにされるような思いで、舜平を見上げた。 「珠生。ほんまは今、欲しいんや……お前が」 「……っ」  舜平はまた、珠生を強く抱きしめる。高まる鼓動で胸が苦しく、珠生はただ舜平に身を任せることしか出来なかった。 「どうする……?」  そんな問に珠生が黙って頷くと、舜平は珠生の額に唇を寄せ、そっと身体を離した。 「じゃあな。今夜はゆっくり休めよ」 「……はい」  ゆっくりと閉まるドア。  明るい外の世界に出ていく舜平の笑顔が、とてもとても眩しかった。  

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