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百四、過去を想う

 彰は葉山に自宅へと送ってもらいながら、窓を開けて朝の空気を吸っていた。  晴れ渡った空を見上ていると、不意に佐々木藤之助のことを思い出す。  猿之助の弟。彼の、たった一人の肉親だった男だ。  かつて、猿之助は業平によってその命を絶たれた。そして、今世では彰がその魂を、完全に消滅させた。  藤之助の魂は、どこにいるのだろう。  こんな行いをした自分を、彼は一体どんな目で見るだろう。  彰はふと、目を伏せた。  佐為は、両親を村の住人達に殺されてからずっと、心を閉ざしていた。  地主のもとで、身体を弄ばれていた数週間の間に、その心は更に身体の奥深くへと潜っていってしまった。  肌に触れられても、何も感じないようにするために。汚いものが、身体の穴という穴に入れられるおぞましい感覚に、気を狂わせないために。  佐為の目は、どんどん鋭く、暗い色へと変貌していった。  そして、心が全て凍りついたあの日、佐為は地主の首を食いちぎり、そこにあった刀と爆発した妖力を使って、屋敷にいる人間すべてを殺害した。  その地獄から佐為を救い上げてくれたのは、佐々木猿之助の弟・藤之助だった。佐為の爆発的な妖気を察知した陰陽師衆が、彼の地を検分に来ていたのだ。  佐為の荒んだ妖気、体中の傷と暗い虚ろな表情、真っ白で華奢な手足と美しい顔立ち。血にまみれながら、じっと藤之助を見上げる佐為の目には、一切の表情もなかった。  藤之助は惨劇の起こった屋敷の中を見回して、もう生存者がいないことを確認すると、佐為の前に座り込んでその目を見つめた。  この頃の藤之助は、齢にしてまだ二十と少し。若いながらに穏やかで、優しい目だった。佐為は、こんな目をした大人は、今まで見たことがなかった。 「刀を置いて行きなさい。そんなもの、もうお前にはいらないよ」  指が白くなるほどに握りしめた刀の柄は、小さな佐為の手には大きすぎる代物だった。藤之助はその手を取って、指を一本一本はがしていく。  がしゃん、と木の床に血濡れの刀が転がって、佐為はぼんやりとそれを見下ろした。 「……僕を、処刑しますか。たくさん人を殺したんだ」 「そんなことはしない。君はまだ小さい。それに……つらい目にあったんだろう」 「でももう、生きてても死んでても、一緒ですから」 「そんなこと言うもんじゃない。君はまだ小さいんだ。これから先、生きていれば素敵なことはきっとある」 「……嘘だ」 「そう思うなら、私と一緒においで。その力の使い方を教えてあげるから。君はきっと、素晴らしい使い手になれる」  佐為は藤之助を見た。藤之助は、佐為を安心させるようににっこりと笑った。 「名は?」 「……言いたくない」 「そうか。じゃあ……私がお前に新しい名をつけようか」 「え?」 「そうだな、これからお前には、私の仕事を助けて行ってほしい。だから、佐為、というのはどうだろう」 「さい?」 「佐という文字は、誰かの傍らで助けるという意味。為という字は、それを成すという意味だ。誰かのために、助けになるという意味だよ」 「佐為、ですか……」  藤之助は外に連れだした佐為に説明するために、地面に指で文字を書きながらそう言った。  新しい名前。自分を拾い上げ、育ててくれようとしている、穏やかな大人の存在。  大らかで強い気を感じて、佐為は安堵していた。この大人は、自分を裏切ることがないと、直感的に理解していた。 「……美しい名ですね」  そう言って、佐為は一筋の涙を流した。  陰陽師衆に加わってからも、佐為は積極的に汚れ仕事、つまり人命を奪う仕事をこなしてきた。  粛清という大義名分があったとしても、それが業平の指示だったとしても、自分が犯した罪は消えない。  でもそうすることでしか、佐為は自分の居場所を見いだせずにいた。  汚れた血、汚れた身体を持つ自分は、汚れた仕事を行うのが合っていると、そう思っていた。 「……疲れた?」  気遣わしげに、葉山の声がした。彰ははっとして、顔を上げる。  きらきらと明るい朝の日差しは、今の自分の気持とはかけ離れている。しかし、葉山の声が、ほんの少し彰の心をしっかりさせる。 「……いいえ」 「彰くんが静かだと、気持ち悪いものね」  葉山は前を向いたままで、そんなことを言った。彰はちょっと笑う。 「なんだそれ」 「何を考えていたの?」  葉山の問に、彰はまたなにかふざけたことを言ってやろうと思った。しかし、頭はいつもの百分の一も回転せず、何も思いつかない。  彰はため息をついて、本当のことを言った。 「……ちょっと、前世で犯した罪について、考えていた」 「罪……か」 「かつて死んだはずの自分が、今こうしてここにいるということは、僕が奪ってきた命もまた、どこかに存在しているってことだ」 「……そうなるわね」 「僕は神なんか信じていないけど、よくもまぁ……何のお咎めもなく平和に暮らせているもんだと思ってね」 「私から見れば、あなたの人生、とても平和には見えないけどね」 「……そうかい?」  葉山の言葉に、彰は彼女の横顔を見た。  丸二日眠っていない葉山の顔は疲れていたし、眼の下にくまもできている。少し肌も乾燥しているようだし、土煙に汚れて髪もぼさぼさだ。  それでもその目は、真っ直ぐで揺らぎがない。 「過去からの罪を背負って今も苦しんでるのに、いつもいつもにこにこしている高校生の、どこが平和だっていうの」 「……」 「魂の安寧を捨てて、現代に蘇ってまであんな戦いをして……それは何のため? この国を護るためでしょ?」 「……うん」 「充分よ。それ以上何をすればいいかなんて、考える必要もないわ」 「……」  彰はじっと葉山の横顔を見つめた。  凍りつき、動かないはずの心が、少しずつ溶けていくような感覚が彰の中に沸き起こる。  彰は、葉山の言葉を、胸の中で何度も反芻した。 「……ありがとう」  彰は心から、そう言った。人の言葉にここまで心を動かされたのは、初めてだった。  葉山はゆっくりと首を振って、彰を見つめる。 「やめて。私は思ったことを言っただけよ。あなたの罪も、あなたの本当の気持ちも、私には分からないんだから」 「そうだね……。でも……嬉しかったよ」 「なら、いいけど」 「五百年経って、葉山さんみたいな人に出会えるとは思ってもみなかったな」  葉山はちらりと、彰を見た。彰は再び前を向いて、いつもの笑みを唇に載せていた。   「ねえ、葉山さん」 「なに?」 「キスしようか」 「しません」  即座にきっぱりと断る葉山が面白く、彰は楽しげに笑った。葉山は仏頂面で、車を彰の家のそばの公園前に停める。  葉山はサイドブレーキをひいて外へ出ると、うーんと呻きながら伸びをしている。彰も車から降りると、少しひんやりとした空気の中、朝の空気を胸いっぱいにを吸い込んだ。  肺の中が、清浄な空気で満たされていく。  心が、いつになく軽い。彰は微笑みを浮かべて、空を仰いだ。 「……美しい空だ」 「そうね。あなたのおかげね」 「そう思うなら、キスしようよ」 「しません。……まったく、術式の前後はとても素敵だと思ったけど、普通に戻るとただのいやらしいガキね」 「素敵? ありがとう、嬉しいな」  彰は都合のいい所だけ聞き取って、にっこりと笑ってそう言った。 「……調子いいんだから」  葉山はそう言って笑った。いつもの憎たらしい彰に戻ってきたことが、嬉しかった。 「まぁいい。人生は長い」  彰はそう言うと、ふっと笑ってポケットに手を突っ込み、自宅の方向へと歩き出した。 「葉山さんも、お疲れさま。美容のために、早く寝たほうがいいよ」 「大きなお世話よ」 「はは、じゃあまたね。後処理の件、よろしく」 「了解」  彰はひらひらと手を振って、そのまま歩き去って行った。すらりとした背中が、朝の光に照らされている。   葉山はそんな彰の背中を見送りながら、笑顔を浮かべてひと息をつくと、再び車に乗り込んだ。

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