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百五、戻って来た日常
各務健介は、はっと目を覚ました。
外が明るい。
「あいたたたたた」
研究室の机に突っ伏して眠っていたため強ばっていた筋肉と関節が、急に身を起こしたことによって悲鳴を上げた。
咄嗟に腕時計を見て、目を丸くする。
時計の針は、午後一時を指していたのだ。
「な、なんてことだ!!」
子どもたちをほったらかして、研究室で寝入ってしまうとは、一体何ということだ。健介はバタバタと白衣を脱ぎ捨てて、鞄を掴んだ。
千秋と珠生の怒り顔が目に浮かぶ。
健介は重たい体に鞭打って、駐輪場まで走った。
自宅に駆け戻った健介が、恐る恐るドアを開けると、家の中はしんとしていた。
「あれ? ……出かけちゃったのかな」
しかし玄関には、珠生のスニーカーも千秋のサンダルも置いてある。怪訝に思った健介は、そろりそろりと家の中に入った。
廊下からリビングに通じるドアを開けると、カーテンを閉めたままの室内は暗かった。
健介は鞄を置いて、千秋の寝泊まりしている和室の方を覗く。襖は開いていて、千秋が布団に入って丸くなっているのが見えた。
「え? まだ寝てるのか?」
健介は仰天して、再び時計を見る。間違いない、もう午後二時が近い。
首をひねって、今度は珠生の部屋を覗いてみる。
「珠生まで?」
珠生もまた、ベッドに入って静かな寝息を立てていた。最近、眠っている珠生しか見ていないような気がした。
さすがに起こしたほうがいいと思い、健介は珠生の身体を軽く揺すった。
「……珠生、珠生」
珠生は反応せず、ピクリとも動かない。随分と深く眠り込んでいるようだった。
「起きなさい、珠生。もう昼だよ」
「う……」
珠生は微かに呻いて、寝返りを打った。しかし全く起きる気配がない。
健介はため息をついて、部屋のカーテンを開いた。今日は天気がよく、外はとても明るい。
一瞬で珠生の部屋が光に満ちる。
「……うーん……」
「珠生、起きろってば」
「……あ、父さん……」
眩しげに、眉間にしわを寄せながら珠生が健介に気づいた。健介は苦笑した。
「どうした? 珍しいじゃないか、こんな時間まで寝てるなんて。夜更かししたのか?」
そう言って、はっとする。
この二人が、自分の帰宅を待っていて夜更かしをしたのではないかと思ったからだ。だとすると、健介がそれを注意する権利はない。
「……あの、その、もう……二時だから……さ」
健介は急に遠慮がちにそう言って、珠生の部屋を出た。
リビングのカーテンを開くと、開けっ放しの和室で寝ていた千秋が、珠生と同じ表情で不機嫌そうに健介を見た。
「千秋も、もう起きたほうがいいよ」
千秋はぼんやりと健介を見上げていたが、その目にじわじわと光が戻ってくる。同時に、千秋は布団を蹴って起き上がり、健介に抱きついた。
「わっ……! 千秋、どうした?」
無言で自分にしがみつく千秋の背に手を置いて、健介は戸惑った。そんなに寂しい思いをさせてしまったのかと、自分を責める。
「……お父さん……ただいま」
「え? あ、ああ……おかえり。ごめんね、昨日は帰れなくて」
「ううん……いい。あたし、ちゃんとここにいるから……」
「ああ、そうだな。ちゃんとここにいるな」
千秋の言葉の意味が分からなかったが、健介は千秋が寝ぼけているのだろうと思い込み、優しく優しくその頭を撫でた。
懐かしい父親の匂いに包まれて、千秋はようやく現実に戻ったということを実感していた。
たった二日そこから離れていただけなのに、もう何年も向こう側の世界に迷い込んだような気分だった。
――こんな想いを、珠生はずっと一人で……。
千秋は顔を上げ、父親から少し身を離して顔を見上げた。
にっこり笑う、優しい父の顔。こうして見ると、健介と珠生の笑顔が殊の外似ていることに気づく。
珠生の部屋を振り返ると、ドアの前に立って二人を見ている珠生がいた。黒いだぼっとしたパーカーのポケットに手を突っ込んで、穏やかな笑みで二人を見守っている珠生の表情は、とても同じ年の少年とは思えなかった。
それでももう、千秋は戸惑わない。珠生のことを、ちゃんと理解したから。
千秋は珠生に駆け寄って、珠生にも抱きついた。
少し、自分よりも背が高くなった珠生の華奢な身体が、その勢いに負けてドアにぶつかる。
「痛いなぁもう、何やってんの」
と、呆れたように珠生が言った。
「何でもないよ」
と、千秋は答えた。
健介は、何故千秋が珠生にまで抱きつくのかということを不思議に思いつつも、兄弟は仲がいいに越したことはないと微笑んだ。最後に双子が揃っているところを見たとき、二人は舜平のことで喧嘩をしていたからだ。
その時とは打って変わって、穏やかに微笑みながら千秋の背をぽんぽん叩いている珠生の顔は、ひどく大人びて見えた。
「……さて、父さん、今日はどこへ食べに行く?」
と、千秋を宥めながら、珠生が健介を見てにっこり笑う。
「今夜は三人で美味しいものなんだろ?」
「おお、そうだそうだ。どこでもいいぞ、何が食べたい?」
「え、そうなの?」
と、千秋が目を輝かせた。
ばたばたと和室に戻って旅行バッグからガイドブックを取り出した千秋は、立ち上がってにっこりと笑った。
「行きたいとこ、いっぱいあるんだ。ちょっとくらい高そうでも、いいよね?」
「ああ、もちろんだ。どこでも予約していいぞ」
「やったぁ」
千秋ははしゃいだ声を出して、嬉しそうに笑った。
健介もそんな千秋の笑顔を見て、また目尻を下げている。
戻ってきた平和な風景に、珠生はほっと安堵した。
鼻歌を歌いながらソファに座って店を選んでいる千秋の隣に座り、珠生もガイドブックに目をやった。
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