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八、夏休みと旅の始まり
翌週は、終業式目前の一週間だ。夏休み前の高揚した空気が、少しずつ学校をざわつかせ始めていた。
その日は期末試験の結果が貼り出されており、昇降口前には、生徒たちが人だかりを作っている。珠生は湊と亜樹の勝負が気にかかり、急いで靴を履き替え掲示板を見に行った。
”一位 柏木 湊 七九八点”
”ニ位 天道亜樹 七九五点”
掲示板の最初に、その二人の名前が仲良く並んでいた。湊のほくそ笑む顔と、亜樹の猛烈に悔しがっている顔が浮かんで、珠生は人知れず笑った。
そして、三年生の掲示に目を移す。
”一位 斎木 彰 九〇〇点”
「さっすが」
満点で一位へと返り咲いている彰の名を見て、珠生は安堵した。やはり、彰の名前はあそこにないと調子が出ない。
一応自分の名前も探してみると、”三十八位 沖野珠生 六三二点”とある。
少し順位を下げてしまい、彰に何を言われるか、勝ち誇った湊にどんな目で見られるかということを考えると、少し気が重くなる。
「ま、いいか」
珠生は小さく呟いて、教室へと上がっていった。
思った通り、すでに2-Aの教室前で、湊と亜樹が小競り合いをしていた。一位と二位の争いに、他の生徒はつっこむ隙もない。珠生は二人を素通りしようとしたが、運悪く亜樹に見つかってしまい、不機嫌な声で呼び止められた。
「待てや、沖野」
「……何だよ」
公衆の面前で、自分に話しかけることを避けていたとは思えないような不遜な口調で、亜樹は振り返った珠生を睨んだ。
「……なんで睨むの」
「あんた、何位やった?」
「……三十八位」
「ふんっ、話にならへんな。柏木には負けたけど、沖野には勝ったしまぁええか」
「ちょっと、これは二人の争いだろ。俺を巻き込むな」
「補習までぎりぎりセーフやん。良かったなぁ、沖野」
四十位以下は全員補習という、名門校ならではの恐ろしいしきたりを、珠生はなんとか回避したのである。それでも、亜樹にこんな言われようでは、嬉しいものも嬉しくはない。
「大きなお世話だ。湊に負けたくせに」
「せやせや、あんまり珠生をいじめたるなよ。ギリギリやねんから」
と、湊はあまり表情は変わらないものの、楽しげな声でそう言った。
「湊、それフォローになってないから」
「そうか?」
「もう、二人とも暑苦しいなぁ」
「暑苦しいとは何やねん! 軟弱男、もやし、オカマ!」
「な……」
曲がりなりにも、かつてこの国で最強の力を誇っていた千珠の生まれ変わりである珠生に、亜樹はそんなことを言い放つと、さっさとB組へと入っていってしまった。
珠生はぽかんとして、ぴしゃんと閉まるドアを見つめていた。
「軟弱……」
「そんなことないて、お前は今でも無敵や」
慰めるようにそう言って、湊はぽんと珠生の肩を叩いた。
「おはよう、沖野くん」
二学期に備えての席替えが終わり、珠生は教室のほぼ真ん中あたりへと席を移していた。今回は一番前ではなく、前から二番目だ。相変わらず、若松には目をつけられているのである。
斜め前の三谷詩乃が、笑顔で挨拶をしてきた。
ついさっき、亜樹の傍若無人ぶりに腹を立てるを通り越して唖然とすらさせられていた珠生は、その優しい笑顔にほっとした。
「おはよう……」
「さ……最近、天道さんと仲いいんやね」
詩乃はなるべくさり気なく聞こえるようにそう言うと、ちらりと珠生の顔を伺った。珠生が眉を寄せるのを見て、びくりとする。
「まったくそんなこと無いよ。全然仲良くない」
「え、そうなん?」
「湊が天道さんと中学からの付き合いだしね、湊といるから俺もそう見えるだけじゃないかな」
「ふうん、そうなんや……」
詩乃はほっとして、ここ数ヶ月のもやもやをようやく解消できたことを密かに喜んだ。
「今日で部活、最後だね」
珍しく珠生から、詩乃にそんな話題を振ってきた。詩乃はどきりとして、こくこくと頷く。
高い場所でひとつくくりにした詩乃の髪が、さらさらと涼しげに揺れるのを、珠生は心地よく眺めていた。
「文芸部もやで。といっても、試験やったしあんまり活動できてへんかったけど」
「俺も。今日は少しくらい描いて帰らないと部長に怒られるな」
美術部の部長は、最上満寿美だ。夏休みが終わるまでに、一枚描いて出展するという目標を立てて、美術部員をきりきりと締めているのである。
一年生は、結局男子が一人しか入部しなかったため、相変わらず静かで穏やかな部活生活である。
「三年生は今日も模試だって言ってはったね」
と、詩乃が微笑みながらそう言う。
「そうなの? 大変だな。俺らも来年はそうなるんだろうけど」
「そうだね」
二人が話をしていると、徐々に教室が生徒で埋まってくる。そろそろ始業だ。
「見に来る? 美術部」
「えっ?いいの?」
「うん、いいよ。みんなの絵見たら、なにか作品のインスピレーションが得られるかも」
「あ、うん。行く。ありがとう」
思いもよらない珠生の誘いに、詩乃の心は軽やかに躍った。
珠生自身も、まさか自分の口から軽くこんな誘い文句が出てくるとは思わず、少し驚いていた。
それでも、詩乃の楽しげな顔を見ていると、言ってみてよかったかなと思ったりもする。
小憎たらしい亜樹とのやり取りが増えたおかげか、珠生は以前よりも人としゃべることが苦手ではなくなっていた。どんな人も、亜樹よりはましだからだ。
詩乃の素直な反応を、珠生は可愛いと思った。
あいつも見習えばいいのに、と珠生は心の片隅で亜樹のことを考えた。
+ +
あっという間に夏休みに突入し、珠生たちは九州へと発つ日を迎えていた。
葉山の作ったしおりに従い、とりあえず京都駅に集合した珠生、亜樹、湊、彰、葉山の五人は、宮尾柚子に見送られて、特急はるか号に乗車した。
葉山は引率の先生よろしく、点呼を取ってみたり弁当を配ったりと忙しそうだ。二人掛けの席に一人で座り、ノートパソコンを開いては移動中も何やら仕事をしている葉山を、彰は通路を挟んだ隣の席から見ていた。
「手伝いましょうか?」
と、声をかけると、葉山はいつもの様に冷たく彰を一瞥して、「結構」と言った。
そんな態度の葉山を見て、彰は楽しげに笑っている。彰の隣に座っていた湊が、ちらりとその横顔を見て、軽く咳をする。そして、小声で彰に尋ねた。
「先輩、ひょっとして、葉山さんとなんかあるんですか」
「え? そんなわけないだろ。どうして?」
「いやなんか……前より断然、楽しそうやし。何か二人見てるとええ感じに見えて」
「ないない。こんな我の強い女性、僕はごめんだよ」
「ちょっと、聞こえてるわよ。お黙りなさい」
ぴしりとした葉山の声に、湊は首を縮めた。彰はまた笑う。
前の席では、珠生と亜樹が並んで座っていたが、二人共機嫌が悪い。くじを引いてこの席になったものの、亜樹は終始文句を言っているのだ。
「なんであんたと隣に座らなあかんねん。せっかくのお弁当がまずくなるわ」
「五月蝿いなぁ。そりゃこっちの台詞だよ。いいからちょっと黙っといてくれない?」
「大体なんで一年も京都におって、未だに関東弁やねん」
「俺は一生関西弁なんか喋らないよ」
「今関西人全員敵に回したで。あーあ、阿呆やなぁ」
「じゃあ十八年京都にいて関東弁の斎木先輩はどうなるんだよ?阿呆なのかよ?」
「……いや、先輩は……」
彰の名を上げると、亜樹は一気に元気がなくなった。なんだかんだといって、彰のことは怖いのだ。
「あの人はいいねん。天才やから」
「なんだそれ。もっといい例えないの?」
「……」
ぐっと、亜樹が悔しげに黙る。彰のことを挙げると弱くなるという特徴を覚えてからは、この手を使うことで亜樹をだまらせることができるようになってきた。
「五月蝿いわよ、そこ」
と、葉山が斜め後ろから注意をする。
「葉山さん、席変わってよ。もう疲れたよ、俺」
と、珠生が振り返ってそう言った。たしかにすでにくたびれた顔だ。
「駄目。せめて私の仕事が終わるまでそのままでいなさい」
「……」
「僕が変わってあげようか?」
と、彰が後ろから声をかけると、亜樹が即座に断った。
「いいえ、大丈夫です」
「よしよし」
彰は満足気にそう言った。
二人は大人しく前を向き、しばらく素直に黙り込んでいた。
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