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二十四、安心できる場所

 その頃、湊は宿の周りを見回っていた。しかし特に異常はなく、夜半すぎに宿へと戻ってきた。  人気のないロビーを過ぎようとした時、酒の匂いが鼻をつき、誰かがベンチの上に横たわっているのが見えた。湊はそちらへ歩を進めると、舜平のかけた毛布を跳ね除けて、ベンチの上で大いびきをかいている敦である。  湊はため息をついて時計を見る。時刻は午前零時半だった。こんなところで寝ていては、明日の仕事に差し障るのではないかと思い、湊は敦を揺さぶった。 「墨田さん、起きてくださいよ。何やってるんですか、こんなとこで」 「うーん……あれ……」 「一人で飲んでたんですか?」  「いや……あれ?」  敦は痛むのか肩を押さえながら起き上がると、あたりを見回す。 「舜平ってやつと飲んどったんじゃけど……俺、寝てしもうとったか」 「舜平と?」  湊は丸くなって落ちていたひざ掛けを拾い上げた。敦はそれを見て、どことなく複雑そうな顔をしている。 「部屋で寝ぇへんと、明日に響きますよ」  湊は二階へ上がりながら、敦にそう言った。敦はひらひらと手を振って、「分かっとる」と言う。  珠生の部屋は湊の隣だ。具合が悪そうだった珠生の様子を見ようかと思い、ドアをノックしかけた湊であったが、はたとその手を止める。  ――舜平がおるんや。きっと珠生の体調も直ぐに良くなる。  何の物音もしないが、それでも今は一緒にいるのかもしれない。 「邪魔したらあかんな……」  湊は直ぐに自分の部屋へと戻っていった。    +  +  たっぷりとした銀色の髪。透き通るような、美しい銀色。まるで、柔らかな絹糸のような。  振り返ったその横顔は、まるで精巧に作り込まれた人形のように整っていて神々しく、瞳に映すことすらためらわれてしまうほどに美しい。  ――我が名は、鳳凛丸。  差し伸べられる白い指。指先にあるのは、長く鋭い鉤爪だ。千珠のものよりもずっと大きく、それでいて優美な形状をもった、真珠のような色をした爪である。  ――探せ……この私を……。  目が合った。その瞳の色は、鮮やかな金色(こんじき)。鮮やかな光を湛えた、朝陽の色を溶かし込んだかのような、まばゆい金色。縦に裂けた瞳孔。紅をのせたかのようなあかい唇。その唇が、もう一度動いた。  ――探せ  珠生は目を開いた。  そして、一人ではないことにすぐに気が付き、はっとして顔を上げる。 「舜平さん……」  そうだ。昨日は、舜平に抱きしめられて眠ったのだ。身体がいつになく軽いのは、久しぶりに深く深く眠ることができたせいか、それとも舜平に霊力を高めてもらったせいか、それともその両方か。珠生はすっきりした身体を起こし、ぐうぐう眠っている舜平を静かに見下ろした。 「……ほんとに、いる」  時差を無視しての長旅で、相当疲れているのだろう。舜平もまた、深く寝入っているようだった。普段はきりっとしている眉間から力が抜け、どことなく幼い寝顔だ。珠生はふっと微笑むと、そんな舜平の額をそっと撫で、身を屈めて舜平の頬に唇を寄せた。  しばらく隣で舜平の寝顔を眺めていたが、ふと、ついさっき見た夢を思い出す。 「鳳凛丸……か」  珠生は軽く居住まいを正すと、舜平を置いて廊下に出た。まだ薄暗く、電気も点いていない廊下を、スリッパを履いてひたひたと進む。階段を降りてロビーの方を見ると、大きな窓ガラスから漏れ入る青白い光で、その空間が美しく清められているように見えた。自動販売機の明かりが、そこだけ人工的で異様である。  ――あのメッセージ、あれは一体どういう意味なんだろう。  珠生はそれが気になって仕方がなかった。    ――鳳凛丸という妖は、千珠(おれ)に何をさせようとしているのだろうか……。  自動販売機の前に立つと、自然とロビーの大窓の前に並ぶベンチが全て見渡せるようになっていた。珠生はふと、そこに亜樹が座っているのを見つけた。 「あれ……天道さん?」  珠生の声に、亜樹がゆっくりと振り返る。その表情がみるみる緩んだ。 「……沖野」  立ち上がった亜樹の方へ、珠生は歩み寄った。亜樹は浴衣姿で、いつもよりも女の子らしく見える。 「あんた……沖野やんな……?」 「うん、そうだよ」  亜樹は一瞬安堵したように笑ったが、すぐに表情を引き締めると、目線を逸らしてぽそりと呟いた。 「昨日は……ありがとう」 「え?」 「妖から……助けてくれて」 「ああ……いや、別に……」  まさか礼など言われるとも思っていなかった珠生は、驚いて言葉に詰まる。亜樹はちらりと珠生を見て、すぐにまた目をそらした。 「なんや、ずいぶん落ち着いてるやん。よかったな」 「うん、お陰さまで」 「あんた……ほんまに強いんやな」 「……まぁね」 「そこは謙遜せぇへんのかい」 と、亜樹がつっこむのを、珠生は懐かしく思いながら笑った。ずっとここのところぴりぴりとした空気が続いていたため、亜樹の憎まれ口が妙に和む。 「何してんの? こんなとこで」  珠生は亜樹の腰掛けているベンチに座ると、まだ薄暗い朝の庭を眺めた。 「……夢に、鳳凛丸が出てきて……。なんか、生々しくて目ぇ冴えてしもうて」 「え……? 天道さんの夢にも出てきたって?」 「何、あんたもってこと?」  亜樹は思わず珠生の顔を見たが、目が合うと直ぐに顔を背けた。なんとなく気恥ずかしくて、まっすぐに珠生の目が見れなかったのである。  珠生はそんなことに気づく様子はなく、小さくため息をつく。 「……やっぱり、何か意味があるんだ。俺、ちょっと行ってみようと思ってさ。昨日先輩が見つけた、怪しい石碑」 「え? それって危ないんちゃうん?」 「別に戦いに行くわけじゃないから、大丈夫だよ。……とはいえ、向こうはどう出てくるか分かんないけどね」 「そんなん、危ないやん。やめときよ」 「舜平さんも来たし、佐為……先輩も一緒に行ってもらうから大丈夫だよ」 「舜平?」 「あ、そっか、会ったことないんだっけ。もう一人、転生者がいるんだ。ここ一年、アメリカに留学してていなかったんだけど」 「へぇ……」 「直ぐ仲良くなれるよ、きっと」 「別にええけど……。そいつ、強いん?」 「うん、強いよ。だから大丈夫だって、そんな顔しなくてもいいよ」 「はぁ? どんな顔や」 「心配してくれてるんだろ?」  珠生はそう言って、にっこりと笑った。亜樹の顔が火を噴くくらい熱くなる。 「ばっ……! そんなわけないやん!」 「またまた、照れなくていいのに」 「調子に乗んな! このスケベ!!」 「またそれかよ」 と、珠生は渋い顔をした。 「五月蝿い! もう、寝る!」 「もうすぐ起きる時間だよ」 「うっさい! あんたのせいで眠れへんかったやん! 阿呆!」  ぶりぶり怒りながら部屋へ戻っていく亜樹を、珠生は落ち着いた心で見送った。今は彼女の暴言にいちいち腹をたてるような気分ではなく、意地っ張りだなと可愛く思える余裕があった。  なんだかんだと言って、亜樹は不安なのだろう。今まで普通に生活してきた女子高生が直面するには、今回の事件はあまりにも非日常すぎる。十六夜の一件で、そういった混乱は珠生も経験済みであり、亜樹の気持は痛いほどに分かるのだ。自分の肩に乗っている責任の重さに、戸惑うことも。  珠生が部屋へ戻ると、舜平はまだ眠っていた。なんとなく嬉しくなって、珠生はもぞもぞともう一度舜平の布団に潜り込み、暖かい舜平の身体にくっついた。 「んー……」 「……起きた?」 「う……ん」  舜平に起きる気配はない。珠生は舜平の腕の中に潜り込み、規則正しく上下する舜平の胸の上に手を置いて、もう一度目を閉じた。  ――そばに居てくれるだけで、こんなにも心が落ち着く。舜平さんがいてくれたから、俺は務めを果たすことができたんだ。  亜樹が、心底安堵できる場所はあるのだろうか。自分の存在が、少しでも亜樹の不安を和らげるものとなればいいのに……と、ふと珠生はそう思った。  

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