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二十六、珠生と白猫

 鳳凛丸は、澄み渡る瞳で空を見上げた。  心地よく、深い眠りだった。しかしふと感じた懐かしい匂いで、鳳凛丸は目覚めたのだ。  同族の匂い。すでに滅びたと伝え聞いていた、己の子孫の妖気の気配……。  それと同時に、ざわざわと騒がしい山の妖たちの気配を感じた。山を揺らすように蠢く数多の気配。高まる神気に呼応するように、山全体が妙にざわめき、落ち着かない空気を漂わせている。  ――しかし、何だか身体が動かしにくい。  あぁ……そうか。私は封じられているのだ。あの神事の折、しばらく大人しくしておけと、あの高慢ちきな神に命じられたんだっけ。  目は覚めているのに、身体が思うように動かない……もどかしい……。  あぁ、暇だ。  誰かここへ来ないだろうか。私の妖気を受け継ぐものは、きっとここへ来ると思っていたのに……まだ来ない……。  鳳凛丸は金色の瞳を空へ向けた。  長きに渡って色を変えない大きな空。すべてを包み込むような青い空を。  そうだ、小さくてもいい、自由に動く身体があればいいのだ。  鳳凛丸は自らの妖気を少しばかり切り離し、見上げた空へと手放した。  +  +  午前中を静かに過ごした珠生たちは、午後になるといそいそと山へ駈け出していった。彰と敦は霧島山全体に防御結界陣を敷くために、先に宿を出ている。  昨日彰が封じた(くだん)の石碑のもとへと、珠生は一直線に走った。  舜平は、自然の中で尚一層生き生きとする珠生の妖気に気を配りながら、息を弾ませてその背中を追う。  珠生の脚は疾い。黒い装束の背を見失わないように、舜平は必死で後を走った。  その日の天気は曇天だ。  まだ雨が降る気配はないが、白く曇った空が霧島山全てに覆いかぶさっている。日差しがなく薄暗い森の中を駆けていると、ちろちろと流れる小さな沢を見つけた。  彰の言っていた場所はもうすぐだ。珠生は歩調を緩めて、舜平を振り返る。 「この辺りだ」 「……おう、そうか……」 「息上がってますよ」 「当たり前やろ! ……お前、そんなに脚早かったか?」 「ここへ来てから、何だか体が軽くて。……ここの神気のせいか、妖気が活性化してるような感じがする」 「でも、あとでしんどくなんねやろ? 力を使い過ぎると、また霊気を削られてまうからな」 「まぁ、大丈夫だよ。舜平さんがいるんだし」  そう言って、珠生は笑った。いつになく勝気な目付きをしている珠生の姿は、どちらかというと千珠の色が強く出ているように見える。  落ち葉や枯れ枝の重なりあった柔らかい地面を踏みしめながら、二人は沢の上流へと進んでいく。  目線の先に、巨大な岩が突き出している。その岩の隙間から、白い飛沫を上げる小さな滝が現れた。  じめじめとしたその場所は日陰になっており、シダ植物が群生していた。水しぶきで濡れた石が積み重なるさまは、まるて(さい)の河原のよう。湿った土の匂いが立ち込めている。  珠生は立ち止まって、その岩の下にある小さな牌のような物を見下ろす。瘴気を抑える立方体の結界が、その碑の周りを取り囲んでふるふると揺れている。 「? ……これは鳳凛丸の妖気じゃないな……」  珠生は呟くと、石碑の前に片膝を着き、しげしげとその石碑を見つめた。自分と似た匂いがするはずなのに、そこからはもっと禍々しく、不穏な気配が流れ出ている。 「どういうことや?」 「先輩は、ここから瘴気が出ていたと言っていた。鳳凛丸以外にも、俺達の邪魔をしようとする妖がいるのかもしれないよ」 「ほんまか。……一体何やろか」 「……分からないけど」  珠生は立ち上がって、小さな滝上を見上げた。さわさわと流れる水の音は涼し気であるが、その音はどことなく不気味だ。ずっと聴いていると、そのまま異界へと導かれてしまいそうな不協和音。真夏であるということを忘れそうに、低く湿った冷たい空気だ。  ふと、うごめく気配を感じとった珠生は、はっと全身を緊張させた。 「……舜平さん」 「あぁ、分かってる」  舜平もじっと岩の周囲に鋭い視線を向けた。珠生は胸の前で合掌すると、薄ぼんやりと輝く宝刀をその掌から抜く。  ざざっ……と強い風が木々の葉を揺らす音が響く。珠生の茶色いさらりとした髪の毛が、乱される。  滝の上に、なにかいる。  抑えてはいるが、強大な妖気を持つものが潜んでいる気配があった。石碑の気と交じり合い、それがなにかはっきりしない。珠生は気を研ぎ澄ました。  舜平は直ぐに印を結べるように、両手を胸の前で重ねあわせる。滝の上に跳び上がろうと、珠生が身を屈めた瞬間、何かが動いた。  緊迫する二人の前にひょいと顔を出したのは、なんと一匹の小さな白い子猫だった。 「……え?」  二人はぽかんとして、その小猫の顔を見上げる。 「……猫?」  珠生は振り上げた宝刀をどうしていいか分からず、ゆっくりと下に降ろしながらあたりを見回す。妖気は消えていない。どこかに妖が潜んでいるはずなのだが……。  子猫はにゃあと鳴いた。生後一ヶ月も経っていないような、小さな小さな白猫である。頼りなく、か細く高い鳴き声に、珠生は気を抜かれてしまう。 「……うわぁ、可愛い」 と、つい呟く。珠生は猫が好きなのだ。 「そこは危ないぞー、おいでおいでー」 『油断しすぎだ、馬鹿者。見た目に惑わされるな』  猫のいる辺りから、軽やかな低音の声が聞こえてきた。珠生たちは再びはっと身を硬くして、あたりを見回す。  しかし、他に誰かがいる気配はない。二人は目を見合わせる。 『見た目に惑わされるなと言っているだろう。ここだここ、私は猫だ』 「へ?」  猫は身軽に珠生たちの目の前に降り立つと、小さくおすわりをして二人を見上げた。きょとんとする珠生と舜平を見上げて、猫は再びにゃあと鳴いた。  珠生は訝しげな顔をして鼻をひくつかせると、しゃがみこんでその子猫をじっと見つめる。子猫は人間がここまで接近しているにもかかわらず、じっと珠生の薄茶色の目を見上げていた。 「……あなたが、鳳凛丸……様?」 と、珠生が信じられないという顔でそう言った。舜平がぎょっとする。 「猫やん」 『封じられて動けぬからな、死にかけていた野良猫に憑依している』 と、猫の口が動いてそんなことを言った。二人は唖然としてその子猫を穴が空くほどにしげしげと見つめた。  『ほう……お前が、私の子孫か。ふむ、この匂い……悪くない』 「鳳凛丸様……なのですね」 「何で子猫に敬語やねん」 と、子猫と見つめ合い、恭しくその名を呼ぶ珠生に、舜平は呆れたようにそう言った。珠生は舜平を見上げて、 「……なんか、そう呼ばなければいけない空気を感じるんだよ」 と言った。 『当然だ。私はお前の始祖。私がいなければ、お前はこの世に生まれることはなかったのだから』 と、白い子猫は、愛らしい見た目とは合わない不遜な口調でそう言った。 「……かわいい」  珠生はひょいと子猫を抱き上げると、そのふわふわとした毛並みや大きな目をじっと見つめて目を輝かせる。金色の目をした白い子猫は、目を瞬かせて珠生を見上げた。 『……憑依する身体を間違えたかな』 と、鳳凛丸は言った。 「あ、失礼しました……。でも……愛らしくて」 と、珠生はにっこり笑ってその子猫の身体を腕に抱く。鳳凛丸は暴れるでもなく、珠生の腕の中に収まっている。 『まぁいい。おい、この石碑は俺の封印場所ではないぞ。言っておくが、こんな場所に封じられるほど、私は軽んじられる存在ではないのだ』 「ほな、これは何やねん」  舜平は足元にある小さな石碑を見下ろしながら、猫に尋ねる。鳳凛丸は大きな金色の目をぱちぱちと瞬かせて、珠生の腕の中で石碑を見下ろす。 『これは、土毘古(つちひこ)という妖の巣だ。こやつ、私が眠りについてからというもの、えらく調子に乗っていたようだな』 「つちひこ……?」 と、珠生。 『かつて、山の神の下僕であった妖だ。私の天敵でもある。この見事な封印……誰がやったのか知らぬが、ざまぁないな』  子猫は目を細めて、結界に封じられている石碑を見下ろした。 「じゃあ……鳳凛丸様が我々を攻撃していたのではないのですか? 神事を邪魔しようと」 『私はそんな野暮なことはしない。これでも神の系譜の者なのだ、高天原の命令には黙って従うさ』 「ほな、なんで眠らされてたんや?」 と、舜平が問う。 『……当時、度重なる霧島神宮の焼失や移転、人間どもの勝手な山の切り売りで、この辺りは荒れていた。確かに、私は少し腹を立てていた』 「……へぇ」 『それに、当時私の妖気はかなり高まっていたからな、放っておけば自然に何かしらの影響を与えかねなかった。だから眠りにつくことによって、気を鎮めるように言われたのだよ』 「そうだったんだ」 と、珠生は指で鳳凛丸の喉をさすった。鳳凛丸は目を細め、気持ちよさそうに喉をごろごろと鳴らしている。 「では、神事を邪魔していたのは、土毘古なのですか」 『そうだろうな。此度封じられるのはこいつだろう。えらく山が荒んでいるのが分かる。小物のくせに山の妖を支配しようと調子に乗るから、こんなことになるのだ』  鳳凛丸は大あくびをしながら、投げやりにそう言った。  珠生と舜平は困惑したように目を見合わせる。  そこへ、黒装束の斎木彰とスーツ姿の墨田敦がやって来た。 「こら珠生、駄目だよ、猫を拾って帰っちゃ」 と、彰は珠生が抱いている子猫を見るなりそう言った。 「え? いや、この子は捨て猫っていうわけじゃなくて」  珠生が慌てて説明しようとするのを見て、彰は困ったような顔で首を振った。 「宿に連れて帰るわけにもいかないだろ? 可哀想だけど、ここに置いて……」 『無礼者。この美しい私が、捨て猫なはずがなかろう』 「えっ?」  突如口を開いてそんなことを言った子猫に、彰と敦はぎょっとした顔を見せる。 「……猫が、喋っとる」 と、敦が信じられないものを見る目つきで鳳凛丸を見下ろした。 「この方が、鳳凛丸様です。子猫に憑依しているだけです」 と、珠生が説明する。 「ほ、鳳凛丸? この猫が?」  珍しく、彰がぽかんとした顔で珠生と子猫を見比べた。猫はじっと彰を見上げて、鼻を鳴らす。 『鳳凛丸様と呼べ。お前、あの忌々しい陰陽師だな』 「ええ、まぁ」 『土毘古を封じているのはお前の術か』 「ええ、そうですけど」 『まぁ、それだけは褒めてやる』 「……どうも」  珠生と舜平から、鳳凛丸が眠りについた経緯や土毘古のこれまでの動向について聞いた彰は、納得したように頷いた。ちらちらと子猫を見ながら話を聞く彰と敦を、鳳凛丸は不快そうに見上げていた。 「……なるほどね。そういうことか」 「ほんなら、神事まで結界はこのままにしとったらいいってことじゃろ?もう、二日のことやけん」 『気を抜かずに見張っておくことだ。土毘古は山全体に下僕を持っているようだからな。お前らの見た影の妖も、力はないが相手の気を吸って大きくなる。また襲ってこないとも限らぬぞ』 「……分かりました」 と、彰も子猫に敬語で話している。敦と舜平は、目を見合わせた。 「なんや緊張感ないな。もっとそれっぽいもんに憑依したら良かったのに。熊とか、鹿とか」 と、舜平はぽりぽりと頬を掻いた。 『一度入ってしまうと、憑坐は簡単に変えられぬ』 と、鳳凛丸は低く心地よく響く声でそう言った。どうしても声と見た目とが合わない。 「いいじゃないですか。かわいいんだから」 と、珠生は尚も鳳凛丸を抱っこしたままにこにことその毛並みを撫でている。鳳凛丸も満更ではない様子で、珠生の腕の中でおとなしくしていた。 「珠生くん、猫好きなんか」 「はい。でも俺、ずっとマンション住まいだから飼えなくて。千秋が猫アレルギーだし……」 「ふーん」 と、彰は尚も鳳凛丸を見つめながら唸りつつ、身を起こして皆を見渡しながら言った。 「とりあえず、戻ろうか。ひとまずここら一体、大小の結界術を組み合わせて張ってはおいた。昨日のような事にはならないはずだ」 「鳳凛丸様はどうしますか? 一緒に来ますか?」 と、珠生は鳳凛丸の脇を抱き上げ、目の高さに持ち上げながら尋ねた。 『ふん、人間どもの集う場所などにこの私が行くものか』 「でも、そんな弱々しい妖気じゃ、妖に襲われたらおしまいちゃうか?」 と、舜平。 『弱々しいとはなんだ。この無礼者が』 と、鳳凛丸はぐるりと首を回して舜平にそう言ったが、まるで凄味はない。 「神事が終わるまで、我々の側にいたほうがいいんじゃないですか? それが終われば、自由の身でしょう? つまらない妖に食われてしまっては元も子もない」  彰の冷静な意見に、鳳凛丸は少し考えるように目を閉じた。 「そうしてくださいよ。俺も心配だし」 と、珠生が重ねてそう言うと、鳳凛丸は目を開いて珠生の薄茶色の目を見つめた。 『それもそうだな。そうしようか』  かくして、鳳凛丸は珠生たちのもとに来ることとなった。

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