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13、彰の家族

 彰は女といたわけでも、仕事をしていたわけでもなかった。  ここ数日、彼の母親は体調が悪く臥せっていた。ところが昨日夜遅くになって、突然激しい頭痛を訴えて倒れたのである。父親は仕事で不在であり、自宅で母と過ごしていた彰は、驚いて救急車を呼んだ。  脳梗塞だった。  その時は命を取り留めたものの、母親は意識を取り戻さずにいる。彰は眠らず、ずっと母親の傍らで、熱を持った手を握りしめていた。病院に駆けつけた父親の蒼白な顔を見て、彰はどういう顔をしていいのか分からず、ただ母親の顔を見つめていた。  反対側の手を握る父親が、祈るように目を閉じた。両親の顔を見比べていると、彰はようやく、自分が思いの外この家族を愛していたことに気がついた。  次の日の早朝、母親は一度だけ目を開き、存外しっかりとした声で話をした。 「お父さん……めっちゃひげ伸びてるやん……ちゃんと寝て、きれいにしとかなあかんよ……」  まず父親の顔に気づいた母親が、苦笑しながら力なくそんなことを言った。そして顔をのぞかせた彰を見て、優しく微笑む。 「彰さん……お父さん、放っといたら何にもせぇへんから……ちゃんと叱ってあげてよ……」 「そんな……これからも母さんが、たくさん叱ってやればいいじゃないか」 と、彰は母親の手を握りしめてそう言った。 「それがね……ちょっともう無理そうなんよ……ごめんねぇ……」 「母さん」  嫌な予感がしたのだろう、父親が険しい顔になってナースコールを押した。そして再び母親の顔を覗き込む。  つう、と母親の目から涙が伝った。 「母さん、しっかりしてよ。先生は、そうひどい発作じゃないって言ってたよ」 と、彰はあえて穏やかな口調でそう言った。父親も頷く。 「……自分のことは、自分がよう分かってる。……ごめんね、彰さん、お父さん……」 「母さん……嘘だろ」 「幸恵! おい! 幸恵、しっかりせぇ!」  突如自分の前に現れた死が、信じられなかった。母親が目を閉じてからのことは、よく覚えていない。  駆けつけた看護師と医師による懸命な延命措置も虚しく、その後母親の心臓が動くことはなかった。ざわついた狭い病室の中、虚しい電子音だけが彰の頭にこだました。  臨終の時間が告げられて、彰は呆然と父親の顔を見た。父親も、同じ顔をして彰を見ていた。  ふらふらと、彰は母親の傍らに歩み寄った。  目を閉じた母親の顔は穏やかで、口元は微笑んでいるように見えた。むせび泣く父親の肩に触れて、彰はこれがまるで夢のなかの出来事のように感じていた。  かつて数多の命を奪ったというのに、大切な人がいなくなってしまう瞬間というのは、こうも呆気ないものなのだろうか。  彰はうまく働かない頭で、母親の笑った顔を思い出していた。  

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