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五、過去の名は
一週間の入院の後、深春は退院することになった。
結局父親とは連絡が取れずじまいであったが、それは予測していたことでもあり、大して傷ついたり驚いたりもしなかった。
それでも、少しくらいは心配して様子を見に来るようなことがあってもいいのではないかと、ちらりと思ったりもした。しかし、深春はそんな思いを打ち消すように首を振る。
あの狐目の男が現れた二日後、今度は黒いスーツ姿の穏やかな目をした男が現れた。年齢は父と変わらないように見えたが、その男は絶えず笑顔を浮かべ、深春の目をじっと見つめながら分かりやすく話をしてくれた。
その男の後ろに影のように控えた狐目の男は、静かにドアの方を向いて立っていた。まるで、何かから二人を守るかのように。
藤原修一と名乗った男は、「君の力を国のために使って欲しい。手を貸して欲しいのだ」と訴えてきた。そんな風に頼みごとをされることなど初めてだった深春は、照れくさいようなむず痒いような気持ちを感じたものだった。
当然、疑心暗鬼もあった。人を傷つけてばかりだったこの力が、どう人の役に立つというのだ、と。
しかしながら、にわかには信じがたい話ではあったものの、この藤原という男の言葉に心を動かされたことも事実だった。
「……行くとこもないし。いいけど」
深春がつんとした声でそう言うと、藤原はほっとしたようににっこりと笑った。
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珠生、湊、舜平、亜樹は初めて対面する織部深春を見て、やや表情を固くした。
深春が発見された時の状況と生育歴については、すでに葉山から説明を受けている。そこにいる全員が、一体どんな人物が現れるのかと、はらはらしながら待機していたのであった。
彰に連れられて姿を現した深春は、すでに一七五を越す長身だが、相当に瘦せぎすの少年だった。とてもではないが、中学三年生には見えないような、荒んだ容貌をしている。
くっきりとした二重の目元に、深い漆黒の瞳。鼻梁の高い細面に、少し厚みのある唇。もし深春がにっこりと微笑むなら、その笑顔に誘われて笑顔にならない者はいなかっだろうが、今の深春はきつく世界を睨みつけ、近づくもの全てを斬り裂かんばかりの鋭い目つきをしている。
もし、少しウェーブのかかった柔らかそうな黒髪をきちんと整えたならば、その端正な容姿を柔らかく引き立て、大人びた容貌を愛らしくも見せるのだろうが、深春の頭髪はだらしなく伸びてぼさぼさだ。
緊張のせいで周囲を威嚇するような目つきになっている深春は、その場にいる学生たちをぎろりと見回したあと、ふてくされたようにポケットに手を突っ込んだ。
彰は深春の背中を叩くと、安心させるように穏やかに声をかけた。
「大丈夫だよ、皆、きみと同じだ」
「……」
深春は彰をちらりと見て、ぎこちなく一礼する。そして、「織部深春です」としっかりとした声で名乗った。
「ほんまに、すごい霊気やな」
と、舜平がそう言った。今日は人が多いので、舜平は藤原のデスクにもたれて立っている。
「怪我はいいようだね、どうぞ座って」
藤原に笑顔で促され、深春はソファに座った。
「今日はえらく大人しいじゃないか」
と、彰が舜平の隣に立ってそう言うと、深春ちらりと彰を見上げて、ふいと目をそらした。そして、ふてくされた表情を浮かべ、低い声で「緊張しているので」と言う。
珠生はじっと、その少年の姿を見つめた。
覚えのある匂い、覚えのある妖気の気配。それは珠生にとってひどく懐かしく、様々な感情を揺さぶられるものだった。
涙、怒り、孤独、殺戮、罪。
あの東本願寺での殺戮の夜、重い宿命を負う二人は、出会った瞬間に魂を共振した。
珠生にははっきりと分かった。
これは、紛れもなく夜顔の魂だと。
「……夜顔」
「え……?」
思わず立ち上がり、珠生は無意識のうちに深春の方へ数歩近づいていた。深春は珠生の美貌に驚きの表情を浮かべていたが、珠生の眼差しを受け止めた瞬間、不思議なものを見るような目つきになった。
深春の黒い瞳と、珠生の胡桃色の瞳が、互いに何かを探り合う。
「……せ、んじゅ……さま」
知るはずもない名前を口にした己の唇を、深春ははっとしたように手のひらで押さえた。しかし、不思議とこみ上げてくる情は抗いがたいほどに懐かしく、そして、蘇るのは優しい感情……。親への親愛など知らぬはずの自分が、他人に対してこんな感情を抱くなど、深春にはにわかに信じがたい出来事だった。
ぽろ、ぽろと深春の鋭い双眸から涙がこぼれる。珠生は思わず深春に歩み寄り、自分よりも少し大きな身体をした少年の肩にそっと触れた。
「間違いありません。この子は、夜顔だ」
「……やはり、君になら分かるのか」
と、藤原が言う。
「はい。……分かります。この子は、紛れもなく……」
そっと頬を拭われて、深春は弾かれたように珠生の手を払った。バシッという鋭い音に、一番驚いているのは深春だっただろう。珠生の手を打った自分の手を見下ろしている。
「お前……何すんねん!」
「舜平さん、大丈夫だよ」
「けど……!」
「大丈夫」
珠生はいきりたつ舜平を制し、深春に微笑んで見せた。深春は混乱しているのか、頭を押さえてソファに座り込み、ため息をついている。
「……何でだよ。あんたは何で俺の……俺の夢の中の名前を、知ってやがんだ」
「いきなり言っても困るだけかもしれないけど、俺たちは、前世でもう出会ってるんだよ」
「ぜんせ……?」
「君の夢は、君が過去に体験した壮絶な記憶だ。五百年前、君は確かにこの世に生きていたのだ」
と、藤原が穏やかな声でそう付け加えた。
「……は、はははっ……何だそりゃ。俺、俺が、アレなの? 人、殺しまくってたアレが……俺?」
「生々しい記憶を再体験するのはつらいことだ。でもね、ここにいる皆は、当時君と同じ時代を生きていた者たちだ」
「……は……あんたら、頭おかしーんじゃねぇの? ……何だよそれ……はは、はは……」
乾いた笑い声、引きつった顔。深春の表情には、ありありと困惑と恐怖が浮かんでいる。珠生には、深春の気持ちが痛いほどに分かる。しかし、今の彼には何を言っても届かない気がして、珠生は小さく唇を噛んだ。
「君のその力が、何よりの証拠だよ。その力を操る術を学び、健康的な生活を送るための新しい家を用意したいと思ってる。……亜樹さん、考えておいてくれたかな」
「……」
亜樹はぴりぴりと周りを警戒している深春を見ながら、一年前の自分を思い出していた。自分とよく似ている、そう思った。
経済的な問題は置いておくとして、家庭がなく居場所がなかった状況は亜樹と同じだ。さらにこの少年は、自分では御せないほどの力を持て余していると聞いた。
落ち着いた環境を整えてもらえたからこそ、今の自分はあるのだと亜樹は理解している。珠生たちと出会えたことを、今はとても感謝しているのだ。
「……柚さんに聞いてますよね。この子を柚さんとこで引き取るかどうか、私に判断を一任するって」
亜樹は藤原の方に体ごと向くと、しっかりとした口調でそう言った。藤原は机の上で指を組んで身を乗り出した。
「うん、聞いているよ」
「私、いいですよ。この子と一緒に暮らしても」
誰も声を上げなかったが、皆が驚いているのが分かった。一番驚いているのは深春だった。
「年頃の君達を一緒に住まわせるということにはやはり問題があるかと思う。だから、別の受け入れ先も準備してはあるんだよ?」
と、藤原は念のため亜樹にそう伝えた。しかし亜樹は首を振る。
「あちこちに散ってるより、一箇所におったほうがいいんでしょう? 私はかまいません、柚さんのとこで、私もすごく落ち着いたし……。それに、部屋には鍵もあるし結界もあるんやから、なんも心配ないやろうし」
「……君がそういうのなら……。深春くんはどうかな?」
藤原に話を振られ、深春は亜樹をまじまじと見つめながらしばらく黙っていたが、ぼそりと一言、「……俺は、どこでもいい」と言った。
「そんならこれでいいやん。人が増えるのも、ちょっと楽しそうやし」
そう言って、亜樹は笑った。
珠生は一年前からの亜樹の変化に心底驚いていた。全てを寄せ付けないような目つきをしていた亜樹が、同じような境遇を経験してきた深春を受け入れようとしている。するも深春はちらりと、珠生を見た。その目線に縋るような何かを感じ取った珠生は、深春に向かって笑みを見せ、安心させるように語りかけた。
「柚さんは全部理解してくれてる人だし、大丈夫。どんな相談にも乗ってくれるよ。それに、すごくご飯が美味しいんだ。天道さんは口が悪くてガサツだから最初は怖いかもしれないけど、深春……くんは年下だから、意地悪もしてこないだろうし」
笑顔でそう言う珠生に、深春は少しばかり安心したような顔になる。まるで狂犬のような深春だが、どういうわけか珠生のことは、何やらすでに特別視しているようだった。
「おい、口が悪いとか言うなや。誰がガサツやねん!」
と、耳ざとく亜樹が珠生に突っかかる。
「そのままを言っただけだけど」
「はぁ? 意味わからんへんねんけど!」
「今まさにこの状況のことだよ」
「……」
亜樹はむかむかと怒りのこもった目線を珠生にぶつけている。深春はきょとんとして亜樹と珠生を見比べた。
「早めに分かっといてもらったほうがいいだろ?」
「別にその子があんたみたいに突っかかってけぇへんかったら、うちも優しくしたるわ」
「おー、怖。その発言がすでに怖い」
「何やてぇ!?」
「まぁ、そういう事なら話は早い。大晦日に引っ越しとしよう」
と、藤原が会話を切り上げるようにそう言うと、珠生と亜樹は黙り込んだ。
藤原は深春を見つめ、
「……君の荷物は、こちらで引き上げさせてもらうけど、いいかい?」と尋ねた。
「はい、いいです」
「お父上とは、まだ連絡が取れないんだが。こちらできちんと話し合いをさせてもらう。君も同席するだろう?」
「いいえ、俺は行きません」
「しかし、君はまだ中学生だし、保護者の方のサインを……」
「いいんです。あんな奴、保護者でもなんでもねぇ。サインなんて、藤原さんが書いてくれたらそれでいい」
「……そうか、分かった。君の意志は受け取ろう。でも、会いたくなったらいつでも言うんだよ」
「そんな日は来ねぇよ」
吐き捨てるようにそう言った深春を、皆がじっと見つめていた。
深春はじっと毛足の長いホテルの絨毯を睨みつけながら、ぎゅっと手を握りしめた。
+
帰り道は、それぞればらばらだった。亜樹は滝田みすずと約束があるといい、珠生にぷりぷり怒りながら帰っていった。その後、湊も用事があると言って、亜樹のすぐ後に出ていった。
珠生は緊張しすぎて疲れている様子の深春と少し話がしたいと申し出て、深春を少し連れ出していた。散歩でもしてくるつもりなのだろう。
高校生たちが出て行ってしまうと、ソファの後ろに立っていた葉山はソファに座った。
「……なかなか、強い気を持った子どもですね」
「夜顔……か。正直、陰陽師衆とっては、彼の存在はいい思い出ばかりではないからな……」
と、珍しく藤原は疲れたようにそう言った。
陰陽師衆の動乱の折、猿之助が使役していたのが夜顔だった。夜顔に部下を何人も殺された。
その罪により、業平はかつては友であった猿之助を、その手で粛清したのである。
「そうですね」
と、彰も静かにそう言った。
「しかし彼のことはしっかり見ておかないといけないな。父親のことも、福祉課の方に見守りを頼んでおいてくれ」
「分かりました」
と、葉山。
舜平は何も言わず、藤原の声を聞いていた。今後深春が、あっさりと更生するのかどうか気になるところだ。あれだけ深く非行の世界に足を突っ込んでいたのだ、急にまともな生活に馴染めるのだろうか。
そして同時に、複雑な気分をも感じずにはいられない。珠生はかつての千珠がそうであったように、深春を気にかけ、世話を焼こうとしている。
そんな珠生の姿に、舜平はついつい複雑な想いを抱いてしまう。
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