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七、新学期

 年が明け、三学期になった。    同居人の柚子と亜樹との暮らしは、思ったよりも平穏だった。  珠生が言っていたように、柚子の料理はとても美味かった。男の子が来たからといって張り切る柚子の献立に、亜樹はカロリーが高すぎると文句を言いつつも、いつも深春と同じくらい食べていた。なのにもかかわらず、亜樹は一向に太らないので不思議である。  聞けば、亜樹が宮尾邸にやって来るまでの人生は、なかなかに寂しいものであったらしい。深春は自分と亜樹の生い立ちを重ねあわせ、何となく亜樹のことは赤の他人とは思えないでいた。  今目の前にいる亜樹は明るくお喋りで、たまに夕飯を食べに来る珠生や湊と口論をする姿は、とても楽しそうだ。  いつか自分も、あんなふうに人を信頼し、笑い合える日が来るのだろうかと、深春は少しばかり寂しい思いを感じながら三人を見ていたものだった。  そして、学校生活にも変化があった。  三学期はきちんと学校へ通うようにと珠生にいい聞かせられ、深春は大人しく中学へ通っているのである。宮尾柚子の家から、油小路(あぶらのこうじ)十条にある応楽(おうらく)中学校へと電車で通学している。  身なりもすっかり小奇麗になった深春を見て、教師を始め生徒たちもひどく驚いていた。しかしながら今までの最悪な評判が消えることはなく、深春は居心地の悪い思いをしながらも中学校へ通い続けた。  ――サボったらだめだからね?  宮尾邸への引越しの日、珠生は天使の様な笑顔を見せながらそんなことを言った。深春は口答えできず、無言で渋々頷く。あの出来事以来、深春は珠生の言うことを聞くようになっていた。野生の勘が物を言うのか、珠生には逆らわない方がいいと感じるのだ。  きちんと学生服を着て授業を受けるなど、初めての経験だ。こんなに長時間座っていることは初めてで苦痛だったが、深春はなんとか耐えていた。それも、進路のことが関係しているからだ。「吹けば飛ぶような内申点でも、三学期くらいはまじめに通うことで、進学への意欲を見せる必要がある」と、藤原に言われたのだ。  宮尾邸にて藤原と珠生に高校進学のことを話題にされた折、深春は迷わずその気はないと言った。しかし、藤原は首を振った。  「中卒という肩書きでは、この先非常に苦労する。世間のことを何も知らず、何の武器も持たないままでは、君は社会生活を送れない」ときっぱり言われた。  ぐっと詰まった深春を見て、珠生はにっこりと笑った。 「宇治政商高校って知ってる? あそこは工業科や商業科、農業科、服飾科……いろんな事が勉強できる学校なんだよ」 「……それが?」 「あそこには、俺のよく知ってる人たちが通っているし、ある程度力も持ってる。きっと君の味方になってくれるよ」  珠生はにこにこ笑いながら、その高校のパンフレットを深春に差し出した。 「何かひとつくらい、やりたいことが見つかるかもしれない。それに、君はもっと忍耐力と持続力をつけていかないといけないからね。君は私達の保護下にあるので学費はもちろん公費だ。腐らず、しっかり通ってみることだ」 「……」  藤原の言葉に、深春は少しふくれっ面をした。どいつもこいつも、大人の言うことは皆同じだ。しかし、この人の言うことにはどうしても逆らいにくい。 「少し遠いけど、頑張ってね」 と、返事もしていないのに、珠生はそう言って微笑む。 「……分かったよ」  そして珠生にも言い返せるはずもなく、深春はボソリとそう言った。    +  亜樹は学校規定のダッフルコートに身を包み、冷たくかじかんだ手をこすり合わせながら登校していた。季節は二月末であるが、まだまだ京都の冬は厳しいのである。  校門をくぐると、皆が背中を丸めるようにしていそいそと校舎の中へ吸い込まれていく。はやく暖房の効いた暖かい教室へ入りたいと、亜樹も少し足を早めた。 「おはよう」  ぽん、と肩を叩かれて振り返ると、珠生がコートにざっくりとした白いマフラーを巻いて立っていた。寒空の下、一層白く見える珠生の肌の色と、そのマフラーの色はほとんど同じようにも見えた。 「……おはよう」 「深春は学校行った?」  最近の珠生は、口を開けば深春の様子を尋ねてくる。毎回のそんな問にうんざりしたような顔を見せるものの、珠生がこうして自分から亜樹に声をかけてくるようになったことは、内心嬉しいことでもあった。 「行ったよ。うちより早く出るからな」 「そっか。感心感心」  珠生は微笑んで、亜樹の横を歩き出す。今は亜樹も人当たりが柔らかくなり、クラスにも馴染んできていたため、今はとても平和な学校生活を送っている。 「うまくやってるみたいじゃん」 「まぁね。別にうちに突っかかってくるわけでもないし、割と普通やな。しかしほんま、深春はよう食べるなぁ」 「今までが今までだったからね。血色も良くなってきたし、ちゃんと肉もついてきて安心してるよ」 「人の心配する前に、あんたももっと食べたほうがいいんちゃうの? エノキのくせに」 「ばか言うなよ、俺は着痩せするタイプなの」 「ぺらぺらやん。よう言うわ」 「五月蝿いな。何なら脱いで見せてやろうか?」 「……んなっ」  むっとしたような表情をしてそんなことを言う珠生に、亜樹は真っ赤になった。思わず拳を固めると、手袋をした手で珠生の下腹部を強かに殴りつけた。 「うぐっ……!」  不意を打たれたせいか、もろにその拳を食らってしまった珠生は、腹を押さえて昇降口の階段で膝をついた。周りにいた生徒達が何事かと足を止める。 「このスケベ!! 変態!」  亜樹は真っ赤になったままそう言い捨てると、座り込んでいる珠生を捨て置いてさっさと校舎に入っていってしまった。珠生は涙目になりながらよろよろと立ち上がると、他の生徒達の目線を避けるようにそそくさと校舎に入る。 「……覚えてろよ」  ぶつぶつと文句を言いながら靴を履き替えていると、のっそりと湊が隣にたって靴を履き替え始めた。 「朝っぱらから何やっとんねん」 「ああ、湊……。おはよう」 「おはよ。また変なこと言ったんか?」  暖房の効いた校舎内で眼鏡が曇るのか、ごしごしとハンドタオルで眼鏡を拭っている湊と共に、珠生は階段を登った。珠生はマフラーで顔を半分隠しながら歩く。 「別に、大したこと言ってない。天道さんが過敏なだけだよ」 「まぁあいつはそういうの奥手そうやもんな」 「……まったく。あぁ、腹痛い」 「最強の男が聞いて呆れるわ」 「……。湊は戸部さんと順調そうだね」 と、珠生は話題を替えるべく、湊を見上げてそう尋ねた。湊はきれいに拭いた眼鏡をかけ直すと、ぐいと人差し指で押し上げる。 「まぁな」 「人と付き合うって楽しい?」 「……まぁな」 「ふーん」  珠生はにやにやと笑って、少しばかり頬を赤くしている湊を見上げながらにじり寄った。 「楽しいんだ。いつもは眉毛一つ動かさない湊が」 「……やかましい」 「戸部さんのこと、なんて呼んでるの?」 「……お前、段々先輩に似てきてないか」 「そうかなぁ」  湊は仏頂面をぶら下げて、ため息をついた。珠生は何となく楽しい気分になって笑を浮かべながら、湊の横を歩く。  

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