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八、複雑な心境
その日、舜平と拓は各務研究室でデータの整理を行っていた。
拓も大学院進学を希望しており、二人は今後長い付き合いになることを笑いあった。お互いに研究テーマは重なる部分が多いため、持ちつ持たれつ、お互いに調べたものを出し合いながら卒業論文の作成に取り掛かり始めている時期である。
二人の指導教官である各務健介は、今日も自分のデスクにかじりついており、午後の講義が終わって戻ってから何一つ言葉を発していない。それはいつものことなので、二人は特に気にせずに黙々と作業を続けていた。
時計の針が午後九時を指した頃、研究室の置き時計が時報を告げた。研究に没頭してしまいすぎる健介のために、二回生のゼミ生が健介の誕生日に贈ったものだった。
あんな可愛い息子さん放っといたらぐれちゃいますよ、とゼミ生の守矢遊花に進言され、健介は苦笑して頭をかいていた。
ふっと顔を挙げた健介が、時計の方を見た。効果は上々らしい。
「……九時か。あ、君たちまだいたの?」
「いました。ずっといました」
と、拓が大きく伸びをしながらそう言うと、健介は苦笑した。
「そこの定食屋でご飯でも食べて帰らないかい?」
「お、いいっすね。でも、息子さんは?」
と、拓。
舜平もデータを保存し、顔を上げた。健介はどことなく浮かない顔をして、机の上に肘をついた。
「……今日は友達の家で食べるって言っててねぇ。別々なんだ」
「へぇ、そうですか」
舜平はそう言いつつ、きっと宮尾邸で食事を取っているのだろうと想像していた。珠生のやつ、ちゃんと説明していないらしい。
「それがさぁ……こないだ、椅子にかけてあった珠生のコートからタバコの匂いがしたんだよ。……僕、もう驚いちゃってさ。結局何も聞けずじまいなんだ」
「タバコ……ですか?」
舜平はぎょっとした。
深春には喫煙癖があるが、未だにそれは治っていない。コソコソと隠れては喫煙を繰り返す深春を、珠生はしょっちゅう発見しては叱っているのだ。きっとその時、深春のタバコの匂いが着いたのだろう。
「まさかぁ。珠生くんがそんなことするわけないじゃないですか」
舜平が笑い飛ばすと、健介はいくらか心軽くなったような表情になったが、どうもすっきりとはしていないらしい。
「聞いてみるくらい、いいんちゃいます? きっと勘違いですって」
「そうだねぇ。……そうしてみようかな」
健介は苦笑しながら、パソコンを閉じて立ち上がった。二人もそれに倣うと、上着を身につけ、荷物を抱えて健介の後に続いた。
ここ二週間ほど、珠生には会っていなかった。
深春の受け入れ先を決める会議で顔を合わせたのが最後だ。年末年始を挟んでいたため互いに家族の用事で忙しかったこともあるが、深春のことについて、珠生はいつになく積極的に動いているせいでもある。
藤原とともに深春の進路について検討したり、つい数ヶ月前まで珠生を襲っていた祓い人・水無瀬紗夜香にも話をつけて、彼女のいる学校に深春を入れようと動いたり。
それに、深春のまわりをうろついていたヤクザ者を珠生が退けたという話もある。警察沙汰ぎりぎりの行動を珠生が取ることは心底意外で、どことなく危うさすら感じていた。
千珠は、夜顔のことを深く深く気にかけていたものだった。その構図はそのまま、現世にも引き継がれているらしい。舜平は、その状況に漠然とした不安を抱いていた。
手助けをしたいし、珠生がどういう想いで動いているのか聞いておきたい……しかし舜平は、論文のことももちろんのこと、年度末はアルバイトも多忙であるためなかなか身体が空かない状態だった。
しかし、美来とのことはけじめをつけた。そのことを、珠生に伝えておきたかったのたが……。
+ +
「ごめん、俺、お前のこと友だち以上には見られへん」
舜平にそう告げられた時の美来の表情は、どこかホッとしたようなものに見えた。舜平がずっと放ったらかしにしていた問題を、美来はずっと悶々と考え続けていたのだろう。美来はさみしげに微笑むと、首を振った。
「ううん。薄々そんな気がしててん」
「……ごめん」
「いいんよ。しょうがないもん。相田くん忙しいって、悠ちゃんにも聞いてたし」
「そっか……。あ、就職決まったらしいな、おめでとう」
「あ、ありがとう。小さい出版社やけどね。まぁこれで、四回生は論文とゼミだけ出てたら学生生活終わりやわ」
「そっか」
「相田くんは大学院行くんだってね。すごいなぁ、ほんまに頭いいんやね」
「そうでもないて。たまたま先生と仲良くしてただけや」
「ああ、珠生くんのお父さん……やっけ?」
「うん」
美来は珠生の顔を思い出しているのか、ホットココアの入ったカップを弄びながらしばらく黙っていた。舜平がコーヒーに口をつけると、美来は目を落としたままぽそりとこんなことを口にした。
「……珠生くんって、本当に可愛いよね」
「ぐふっ……そ、そうか……?」
突然珠生の話題になり、舜平は思わずむせた。
「相田くんにすごくすごく懐いてる感じがして、可愛かったなぁ」
「い、いや……そうやろか」
「あの文化祭の日、あたしのこと見て、珠生くんちょっと困った顔しててん。お兄ちゃんを取られたみたいな、そんな顔」
「……え?」
「うん。ちょっと、悪いことした気分になっちゃった」
美来の苦笑いを、舜平はただただ見つめることしかできなかった。
「なんか最近ね、悠ちゃんも相田くんも、珠生くんに取られちゃったような気持ちになってたの……馬鹿でしょ」
「え……?」
「あの子のせいじゃないのにね。単にあたしに、自信がないだけなのに」
「安西は、もっと自分に自信持ったらええと思うで。可愛いし、よう気ぃ利かしてくれるしさ」
舜平が笑顔でそんなことを言うのを、美来は困ったような笑みを滲ませて首を振った。
「振った女に、そんなこと言うたらあかんよ」
「う……」
「舜平くんは皆に優しいからなぁ。多分他にも勘違いしてる女の子、おるんやろうなぁ」
「……そうかな」
「ごめんごめん。つい意地悪言っちゃった。それが相田くんのいいところやねんけどね……彼女になる人は、ちょっと大変かもね」
「……すまん」
言い返す言葉も無く、舜平はコーヒーをまた一口すすった。
薄い割に苦いコーヒーだった。
珠生の入れるコーヒーの味が、無性に恋しくなった。
+ +
健介と拓と共にボリューム満点の唐揚げ定食を食べながら、舜平は寂しげな美来の笑みを思い出していた。拓と健介はゼミ生の誰それが付き合っている付き合っていないというゴシップ話を繰り広げており、舜平は耳半分でそれを聞いていた。
「なぁ、絶対湯田くんは守矢さんの事好きだよな?」
不意に拓にふられたそんな話題に、舜平は一瞬ついていけずぽかんとしていた。拓がもう一度その問を繰り返すと、舜平はようやく頷く。
「あ、ああ。せやな。そう見える」
「だろ? でも守矢さんは舜平のことが好きやん? 三角関係やな」
「え、そうなの?」
健介は目を丸くして舜平を見た。舜平にとって、今こういった話題は避けて通りたい部分ではあったが、二人の視線を浴びながらでは方向転換も難しそうだった。
「俺は興味ないけどな」
「おいおい、女泣かせだね。はようきっぱり振ったれよ」
「告られてもないのに、ふるってのもおかしいやろ」
「お前最近女の気配ないから、それで隙があるんやろ」
「女……って先生の前でなんてことを」
ぎょっとして健介を見ると、健介はにこにこしながら焼き魚に箸を入れつつ聞いている様子だった。
「いいんだよ。君たちも学生と言う前に、いいお年頃の青年なんだから。青春だねぇ」
――いや、青春というか……俺はあなたの息子さんと親密な関係を築かせていただいております……と、内心独り言を言い、舜平は引きつった笑みを浮かべた。
「あ、あはは……前の彼女で少し凝りましたから」
「そうなんだ。その後、その彼女とは?」
「全然……連絡もとってません。学内で会うこともないし……」
佐々木猿之助に憑依されてから後、彰によって舜平にまつわる記憶を全て消された梨香子。舜平は稀に梨香子のことを学内で見かけることもあったが、彼女は以前と変わらず華やかで、常に男を連れて歩いていた。あれが彼女の本来の姿なのだろう、自分と付き合うことにこだわっていた頃よりも、ずっと活き活きして見えたものだ。
「そっか……。珠生もそのうち、誰か女の子を連れてくるようになるのかなぁ」
健介は食事を終えてお冷を飲みながら、しみじみとそんなことを言い出した。ふと、舜平の手が止まる。
「そらそうですよ。あんなイケメンな子、周りの女子がほっときませんって。なぁ?」
拓が笑いながら舜平にも同意を求めてくる。舜平もぎこちなく笑って、文化祭に遊びに行った時に見た、珠生の尋常ならざるもてっぷりを面白おかしく聞かせた。健介は目を丸くしながらも、どこか嬉しそうに頷きながら聞いている。
「そうかそうか。小学校中学校と、あんまりいい思い出がないとか言ってたから心配してたけど、高校は楽しく通ってんだなぁ」
健介は少し涙を滲ませながら、しみじみと呟く。
舜平と拓は親馬鹿な指導教官を眺めながら、同時に味噌汁を飲んだ。
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