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二十二、夏の訪れ

 七月に入り、本格的に暑い日が続くようになった。  八月から京都に赴任することが決定した葉山は、その下準備のために京都駅に降り立っていた。  藤原の計らいかと思ったが、そうではないと藤原本人は否定していた。しかしどこか嬉しそうな顔で、「彼らを頼むよ」と肩を叩かれた。  住む場所は指定されている。  家具家電付で家賃も手頃。生活に関してはかなり優遇されている。この不景気に、国家公務員がこんな生活をしていることが世間に知れてはあまり良くないだろうなと思いつつも、葉山はこぎれいで広めの官舎に満足していた。  どうしても駐車場を確保しなければならないという条件のため、官舎は京都市北区にある。葉山はとりあえず地下鉄に乗って北を目指した。最寄り駅は北山駅であり、彰や舜平の通う大学の学生達が利用する駅でもある。そんなことを彰に話すと、これからはもっと会えるね、と嬉しそうに笑っていた。  がらがらとキャリーケースを引いて歩いていると、日傘をさしていても感じるくらいの夏の日差しが眩しい。早くヒールを脱ぎたかった。暑いのはあまり好きではないのだ。 「葉山さん」  ふと、植物園の前を通りかかった時、誰かに声をかけられた。日傘を傾けて声の主を見ると、そこには彰が立っていた。平日であろうに、手ぶらである。 「彰くん、何してるの」 「そろそろこのへんを通りかかるんじゃないかと思ってさ」 「ストーカーみたいなことしないでちょうだい。授業はどうしたの?」  冷ややかな葉山の台詞に、彰は笑い出す。 「ストーカーってひどいな。次の授業は午後だ」 「あらそう、じゃあ自主勉強してなさいよ」 「つれないなぁ。引越し手伝ってあげようと思ったのに」  葉山について歩きながら彰はそういって声をかけてくる。傍目に見ればナンパをしているようにしか見えない。  彰は葉山の手からキャリーケースを取ると、横に並んで歩き出す。葉山は笑みの浮かんだ彰の唇を見上げながら、ため息をついてそのまま進んだ。  そこから五分ほど歩いた所に、コンクリート打ちっぱなしのモダンな外装のマンションが現れる。葉山はスマートフォンで地図と建物名を確認して、そのビルを見あげた。 「随分綺麗なところだね」 と、彰も六階建てのマンションを見上げてそう言った。 「また税金の無駄とか言うんでしょ」 「言わないよ。思ったけど」 「それじゃ一緒じゃない」  彰はふっと笑って、先にマンションに進んでいった。平日の昼間だ、マンション内はしんとして涼しい。  部屋の中は一人で暮らすには広々としており、内装も家具家電もすでに誂えてあるため、すぐに生活出来る環境だ。葉山はすでにリビングの真ん中に置いてある二人がけのソファに腰掛けると、ぐるりと部屋の中を見回した。 「一人暮らしはしたことあるの?」 と、彰も部屋をうろつきながらそう言った。 「東京ではずっと一人だったし、鹿児島、広島、名古屋、石川……まぁ、そのくらいかな」 「結構あちこち行ってるんだね。あれ、実家はどこ?」 「実家は京都よ」 「え? そうなの?」 「京都といっても、園部の方だから、田舎ね」 「何で標準語喋ってるわけ?」 「あんたに言われたくないわよ。全国あちこち行ってるとそうなるのよ」 「ふうん、そうなんだ。そう言えば業平様もそうだったな」 「あの人のが移ったってのもあるわね」 「へぇ」  彰はペットボトルのお茶を葉山に差し出し、ソファに腰掛けた葉山の隣に腰を下ろした。そして、にっこりと笑う。 「なに?」  葉山はぐびぐびとお茶を飲みながら、彰の顔を見つめた。今にも抱きついてきそうな笑顔である。 「嬉しいよ、京都にいてくれるなんて」 「別に、私が希望したわけじゃないわ。異動だもの」 「ははっ、ドライだな」  彰はつんつんした葉山の言葉にもめげることなく、楽しげに笑っている。  よく笑うようになった彰を見ていると、葉山の表情も緩む。初めて会った時の、あの余裕を滲ませた冷たい笑みではなく、彰は歳相応の可愛らしい笑顔を見せるようになってきた。葉山にとってもそれは嬉しいことだ。  ”結婚しようね”  十六夜結界を張る前日の夜、まだ高校二年生だった彼がにこやかに言ったその言葉は、今も葉山の心を強く捉えている。  葉山は照れ隠しに立ち上がり、大きなリビングの窓の前に立った。レースのカーテン越しに見える景色は、植物園のこんもりとした上の部分と、京大のグラウンドだ。東京とは違うのんびりした空気に、心がなごむ。  葉山の背後から、彰の腕が回りこむ。ぎゅっと後ろから抱きしめられ、彰の体温がふわりと伝わってくる。そんな彰の行動を、いちいち咎めるようなことはなくなってきた。  長い髪をまとめているクリップが彰の手によって外されると、少しばかりうねりのついた葉山の髪が流れ落ちる。ふわりとしたシャンプーの香りに、彰は微笑んだ。 「……葉山さん」 「なぁに?」 「好きだよ」 「……そう、ありがとう」  耳元で彰が笑う。彰はいつも、葉山からの言葉を求めない。それでも彰は、いつも変わらぬ態度で自分に接するのだが、相手の気持が分からず不安になるという気持ちを彼は持ち合わせていないのだろうかと、葉山はたまに気になるのである。  ゆっくりと自分の方へ葉山を向き直らせ、じっと見つめてくる彰の切れ長の瞳を見上げながら、葉山は否応なく高なってくる心臓をなんとか理性で抑えていた。 「そういうのは、学校が終わってからにしなさい」 「えっ? まだ何もしてないじゃないか」 「雰囲気でわかるわよ」 「学校が終わったらって……小学生じゃあるまいし」 と、彰は気が抜けたように眉を下げて笑った。  そんな彰の笑顔を見ていて、幸せだと思うということは、やはり自分もこの青年に惚れているということなのだろうと、葉山はった。  抱きしめられた腕の中で、そっと微笑みながら。  +  +  明桜学園高等学校では、期末試験も終わり、あとは夏休みを待つばかりという浮き足立った時期に差し掛かっていた。  しかしながら、高校三年生達には進路調査と三者面談が設定されており、完全に浮かれる事もできない時期だ。この学園では、めったことがなければそのまま大学まで進学することができるのだが、よほど学業成績の奮わない者、また素行に問題がある者については容赦なく他の道を薦めるという厳しい面もある。  一方で、斎木彰のように希望する学部がない場合、他の大学を受験する生徒もいる。高校三年間の成績を鑑みての、推薦制度も整っている。  その日は授業が半日で終わり、午後からは三者面談が予定されている日だ。  珠生は十六時半という一番最後の枠に面談が予定されており、二時間ほど時間が空いてしまった。教室には何人かそんな生徒が残っており、その中に空井斗真と梅田直弥も待ち時間があるというので、何となく三人はトランプをしながら教室の後ろの方に座って、時間を潰していた。 「沖野は何学部に行きたいん?」 と、ババ抜きをしながら斗真が尋ねた。珠生はババをどこに挟み込もうかと考えながら、淡々と答えた。 「国文学部だよ」 「それって何するの?」 「日本の文化の研究かな。古典文学とか、哲学とか」 「お前、そういうの興味あったんや」 「うん、まぁね」 「梅田は?」  珠生のカードからババを引いてしまった直弥は、むっと唇を噛んでから目を上げた。 「俺は経済学部やな。宿の経営のこともおいおい考えていかなあかんし、それまでに幅広く経済について見とかなあかんやろ」 「おお、さすが」 「そういう空井は?」 と、珠生は、残り二枚になったカードを直弥に見せながらそう言った。 「俺なぁ……結局バスケができりゃどこでもええねんな」 「ってことは未定?」 と、珠生。 「うん……若松には、偏差値の低い商学部とか薦められとるんやけど、俺、勉強きらいやから」 「スポーツ心理とか」 と、直弥がババを持て余しながらそう言う。 「それってあれやん、結構偏差値高い学部やろ、俺の成績じゃ無理やねんて」 「スポーツ推薦組もこういう時大変だね」 と、珠生は一番に上がって両手を上げながらそう言った。 「俺の勝ちー」 「あ、お前いつの間に」 と、直弥が目を丸くする。  無邪気に勝利を喜んでいる珠生を、斗真はしげしげと観察している。 「沖野ってさ……可愛いよな」 「え?」  直弥と珠生が同時に不審な目つきで斗真を見た。斗真ははっとして、苦笑しながら直弥のカードを引く。 「あ、いやさ。あんま男っぽくないやん、細いしさぁ」 「……お前、そういう趣味なん?」 と、直弥が不気味そうに斗真を見て、「俺はやめてくれよ」と言った。 「誰がお前みたいにゴツゴツしたやつ」と、斗真が反論している。 「……まぁ、よく言われるよ。俺、スポーツもっとしたほうが良かったかな」 と、珠生は苦笑いする。 「でも沖野、体育得意やん? もったいなかったなぁ」と、直弥が残り二枚になり、いかにして斗真にババを引かせるかと試行錯誤しながらそう言った。 「でも、それ以上に絵が好きだから」 と、珠生は二人の心理戦を眺めながらそう言う。 「まあ沖野は何もせんでもモテるから大丈夫やって。よっしゃ! 勝った!!」 「うわ、くっそ!」  最終的にババを引いた斗真が、トランプを机に投げ捨てる。短い髪をぼりぼりと掻いて、斗真は伸びをした。 「大学では彼女できるかなぁ……」 と、斗真は窓の外を見上げてため息をつく。 「またふられたの?」 と、珠生は机の上に散乱したトランプを片付けながらそう言った。 「そうやねん。俺、何でふられるんやろう」 「男前やのにな。背も高いし」 と、直弥が慰めるようにそう言った。斗真は泣きそうな顔で「もっと男っぽい人だと思ったとか、もっとクールな人だと思ったとか、言われんねん」と訴える。 「女の人は男の外見で、自分に都合がいいように妄想膨らませるらしいよ。そのイメージが合わなくてふられるんだね」 と、珠生。 「お前、いつのまに女心について語れるようになったんや」 と、直弥が目を丸くする。  この間の旅行の帰りに、恩田芙二子が言っていた内容である。珠生は彼女について何と説明したらいいのかと考え、「大学生の友達の、その女友達がそう言ってた」と言った。 「なんやそれ」 と、斗真。 「沖野ってさ、大学生の友達多いよな」  今度は大富豪だと言って、直弥がカードを配り始めながらそう言う。 「そうかなぁ。美大の人と、京大に二人と、芙二子さんは……なんだろ」 「フジコってなんや。エロい名前やな」 と、峰不二子を想像したらしい斗真が色めき立つ。珠生は苦笑して、 「いや、多分想像してるのとだいぶ違うと思う」 と言った。 「美大の人って? 絵つながり?」 「ううん、俺、その人のモデルやってるからさ」 「モデル! うわ、いかにもやな!」 と、斗真がまたテンションを上げている。 「脱いだりすんの?」 と、斗真はさらに畳み掛ける。 「うん、この間は脱いだ」  珠生がハートの二を出しながらそう言うと、二人は顔を固まらせて珠生を見た。珠生は慌てて、「全裸じゃないよ」と言った。 「お前、ホント謎やな」 と直弥が笑いながら言うと、斗真は真顔で、「お前、なんかほんとエロいよな」と言う。  直弥が呆れたように斗真の頭を殴っているのを苦笑しつつ眺めながら、斗真とは一度キスをしてしまったことを思い出す。きっと彼の中で、感覚的な記憶が残っているのだろうと珠生は解釈していた。  そうこうしている間に、梅田直哉は順番になって呼ばれていった。二人になった斗真と珠生は、七並べをしながら時間をつぶす。 「沖野は彼女いいひんの?」 「うん、いないなぁ」 「後輩とか、選び放題やろ」 「いや……よく知らない子のことは……」 「好きになれへんってか? 俺なんか好きって言われたら無条件にその子のこと好きになるけどな」 「はははっ、それ羨ましい」  そんな軽い台詞に笑う珠生を見て、また斗真の心臓がどきりと跳ねる。以前からどうしても珠生にはときめいてしまうのだ。 「好きな子いいひんのか」 「うーん、そうだなぁ」 「もてすぎて感覚狂ってるんちゃう?」 「そんなことないだろ」  純粋そうな斗真に舜平のことなど言えるはずはない……と思いつつ、珠生は苦笑いしつつ斗真に話を振った。 「空井くんはいないの?」 「俺はなぁ……告られてんのに振られるっていうのが立て続けで、よう分からへん」 「それも大変だね」 「そうやねん。全く、身勝手な女どもめ」 「大学行って、もっと出会う人が増えれば変わるよ、きっと。学外からもいっぱい学生が来るっていうし、バイトだってするかもしれないし」 「ああそうやなぁ……。それに期待かな。あ、そうや。沖野さぁ、和菓子好きか?」  唐突に話題が変わり、珠生はトランプに落としていた目線を上げて、斗真を見あげた。斗真はトランプをくるくると器用に指で回しながら、微笑む。 「好きだよ、なんで?」 「俺のばあちゃんち、そこそこ老舗の和菓子屋なんやけど、店が古くなったから改装するねん。売上もそこそこ良かったし、ちょっと心機一転バイトでも雇って手広くやってみよかって話になっててな」 「へぇ、すごいじゃん」 「俺、そこで働くねんけど、お前もバイトせぇへん? お前がおったら、絶対女の子に人気出ると思うし」 「え、そうかな」 「そうやろ! 文化祭の時のお前見ててさ、これは是非にと思っててんな」  斗真はトランプを置いて、ぐいと珠生の手を両手で握った。珠生が目を丸くしていると、斗真は真剣なきらめく瞳でじっと珠生を見つめる。 「なぁ、一緒にやろうや! 待遇とか、俺が色々口きくから!」 「うん。いいよ」 「まじ?」 「うん。わらび餅、美味しかったもんね」  にっこり笑う珠生の笑顔に、斗真は一瞬でやられてしまった。まるで珠生の周りにだけきらきらと星が散っているように見え、斗真はその手を離せずに見蕩れてしまう。 「……あのさ、空井くん」 「なんや」 「鼻血、出てる……」  珠生の手を握りしめて鼻血を出しているという斗真を、クラスに残っていた女子数名が不気味そうに見ている。珠生は苦笑いのまま、ゆっくりと斗真の手から逃れた。 「……ティッシュ、ちょうだい」  斗真は近くに座って読書をしていた大人しげな女子に、ティッシュを求めて手を付き出した。その女子生徒は不審げに顔をしかめつつ、ポケットティッシュをくれた。  

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