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二十四、琵琶湖のほとり

 とりとめのない話をしながら、山道と長いトンネルを抜けると、京都市内とは明らかに空気の違う雰囲気の街へ出た。  満月によって照らされた山の稜線が美しく、ちらほらと見える明かりも京都と比べるとまばらだ。そして目線を下げると、そこにはのっぺりとした月が写り込んだ静かな水面が見える。そこはまるで海のように見えて、珠生は思わず身を乗り出した。  今夜は明るい満月の浮かぶ夜。海と違って波がないためか、ぽっかりと見事に月が映る黒い水面に、珠生は目線を吸い寄せられる。 「……きれいだね」 「ほんまやな。今日は明るい夜で良かった」 「すごいね、本当に海みたいだ」 「せやろ、かなりでかいからな」  本当に海水浴場よろしく泳ぐこともできるのだと知り、珠生はひたすらに感心していた。湖西道路というものを降りて湖の側を走っていると、助手席側に琵琶湖が見える。珠生は窓を開けたまま、今まで見たことのない景色に感動していた。 「北崎とも琵琶湖へは来てへんかったんやな」 「そういえばそうだね」 「今度みんなで泳ぎに来るか? 水上バイクとかでも遊べんねん」 「うん……楽しそうだなぁ」 「あんま乗り気じゃないな」 「俺、実はあんまり、水好きじゃないんだ」 「え、そうなん?」 「今は大丈夫だけど、昔は金槌だったし……」 「へぇ、お前が? ははっ、まじか」 「笑うことかよ」 「だって、いや、そうかそうか、カナヅチか」  舜平は手を伸ばして、珠生の頭をくりくりと撫でながら笑った。珠生はその手を払いのけて、ふくれっ面をする。 「なんだよ、美術2のくせに」 「う、何でそれを……」 「悠さんに聞いた」 「……あいつ」 「どうやったら2なんか取れるんだよ。逆にすごいよね」 「やかましい」  今度は舜平がふくれっ面をしている。二人はしばらく黙っていたが、珠生は舜平と琵琶湖を眺めていればそれで満足だ。  ふと、舜平は右折して、大津港のそばにある商業施設の駐車場へと入った。適当に駐車してから、エンジンを切る。 「ちょっと近くで見てみるか」 「うん」  珠生は笑って、車を降りて行く。湖岸の方へ駆けていく制服の白い背中を見送って、舜平は少し微笑んだ。自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、珠生の後をゆっくりと追いかける。  湖岸はきちんと整備され、気持ちのいい散歩道のようになっている。ごつごつした岩で固められた湖岸を歩きながら、珠生は黒くゆらゆらとゆれている水面を眺めていた。  舜平はその横に腰を下ろして、はあ、と大きくため息をつき、「やっぱ水辺は落ち着くねぇ」 と、缶コーヒーを開ける。 「やっぱ疲れてるんだね」 と、珠生も礼を言ってコーヒーを飲んだ。 「こんなに頭使うの、初めてやからな。昔はよかったなぁ、身体だけ動かしてたらよかってんから」 「舜海……だった頃のこと?」 「そう。ちょっと知恵がついてもうて、頑張って国立受けて合格して……気づいたら更にその上目指してて。どこで道を誤ったやら」 「本当は行きたくないの?」 「いや、行きたいで。ただちょっと、愚痴を言いたい気分なだけや」 「ふうん、大変だね」 「心こもってへんな」 「だってまだ、そういうのよく分からないよ」 「ま、それもそうか」  舜平は笑って、コーヒーを美味そうに飲む。長い脚を投げ出して、舜平はまた深呼吸した。  満月を見上げる。  珠生の透明な大きな目に、白い月が映っているのを見て、舜平はふと千珠のことを想い出した。妖力のなくなった千珠を、抱いていたあの頃のことを。 「対岸が見えるけど、琵琶湖って北に向かって大きいんだよね?」 「おう、せやで。さっき言ってた泳げるとこも、かなり北の方やねん。そっちはもっと水綺麗やで」 「へぇ」 「行ってみたいか?」 「……そうだなぁ。舜平さんが落ち着いたら、一回くらいは見てみたいかも」 「……そか」  殊勝に舜平の多忙を気遣う珠生を可愛いと思いながら、舜平はぽんと頭の上に手を置いた。下から自分を見上げる珠生の大きな目が、かすかに潤んで揺れている。  珠生にそうして上目遣いに見上げられると、弱い。舜平は赤面して、照れ隠しにぐしゃぐしゃと珠生の髪をめちゃくちゃにした。 「うわ! 何するんだよ!」 「ええから、そのかわいい顔やめろ」 「え?」 「あ」  思わずそう言ってしまってから、舜平はぱっと赤面して顔を背けた。なんでこう毎度毎度、心の声が漏れてしまうのだろうか。「……やめろって言われても……」と、珠生がブツクサ呟いている。 「そういうこと言うのやめてって言ってるだろ。気持ち悪いってば」 「すまん」  素直に謝る舜平に苦笑しつつ、珠生は丸まっていた脚を伸ばして、後ろ手をついた。舜平も同じ姿勢になり、顎を仰向けて空を見上げている。 「しゃあないやろ。そう見えんねんから」 「開き直られても」 「はぁー、夜風が気持ちええなぁー」 「……」  わざとらしく声を大きくする舜平に呆れていると、ランニングをしている高齢者の足音や、お喋りをしながら後ろを歩いて行くカップル達の声が聞こえてくる。何と平和なのだろうと、感じずにはいられない。穏やかな水面、綺麗な満月、満ち足りた人々の声や活動の気配。  この地の気は平穏で、満ち足りている。 「このまま旅行でも行きたいなぁ」 「こないだ悠さんたちと行ったばっかじゃん」 「いや……お前と、二人で……や」 「えっ。……あ、うん……」 「卒論出したら、どっか行こか。行きたいところあったら、また言うて」 「う、うん……。舜平さんは、どこかあるの?」 「せやなぁ」  舜平は珠生の方に顔を向け、柔らかく微笑んだ。眼差しから愛情が伝わってくるような優しい微笑みに、珠生はときめかずにはいられなかった。 「たまには、京都より都会に行くんもええかもな。神戸……は近すぎか、横浜とか、東京とか」 「あぁ……関東か」 「そういや、珠生は千葉の生まれやったな」 「そうだけど。今となっては、すっかりこっちが故郷って感じだよ」 「そうか」  舜平が、嬉しそうに笑っている。舜平の笑顔を見ていると、とてもしあわせな気持ちになる。  そうすると不意に湧き上がってくるのは、舜平にくっついて甘えたいという衝動だ。抱きしめられたい、キスしたい、そしてあわよくばその先まで……と、外にいるというのについつい欲張ってしまう自分を、珠生はちょっと恥ずかしく思った。 「わ……わ、和歌山なんかもいいかも!! 白浜とか、行ってみたいし……」 「あぁ、それもええなぁ。楽しみや」 「うん……俺も」  地面の上に置かれた珠生の手の上に、舜平の手のひらが重なった。珠生がびっくりして身体を震わせると、舜平は暗い湖を眺めながら、小さな声でこう言った。 「……こんな話が、普通にできるようになるなんてな。俺、めっちゃ幸せやわ」 「ふえっ……?」 「好きやで、珠生」 「……な、ななん、なんだよいきなり……っ」 「先生も待ってるやろし、そろそろ帰らなな。……お前がしたがってることは、また今度ゆっくりやろな」 「へっ!?」 「ははっ。ほな、行こか」  考えていることがバレてしまうほど緩んだ顔をしていたのかと慌てたが、舜平に手を引かれ、珠生はすっと立ち上がった。  そして二人はもうしばらく湖畔を散歩し、おとなしく帰路についたのだった。

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