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二十五、嘘笑み

   織部深春は放課後、屋上でタバコを吸うのが日課になっていた。  もう夏休みに入っていたが、深春は学業成績が著しく奮わない生徒であるため、補習に呼び出されていたのである。  珠生に会うような予定があるときは控えるが、普段は毎日ここで一服してから下校している。珠生は嗅覚が犬並みに鋭いので、いつもバレて叱られてしまうのだが。自分の健康について思ってくれているのは分かるが、一度ついてしまった喫煙習慣はなかなか変えることができないのだ。  ここ最近、深春は苛立っていた。  この数日立て続けに見る夢が、深春の精神を深く蝕んでいくように感じている。  深春が前世の夢をみるペースというのは、珠生たちとは少し異なっているようだった。彼らがとある一定の短期間で一気に夢を見ていたのとは対照的に、深春は夢をみる時期と見ない時期が交互に訪れるのである。  珠生たちは記憶を一度に取り戻した後、その後ぽつぽつとその後のことを思い出したり、またあるときは振り出しに戻るような断片的な夢見をしているらしい。しかし深春は、夢をみる時期はえらく集中して同じ夢を何度も繰り返して見てしまう。  人を殺してしまった記憶を、なんども夢に見るのは苦しいことだ。身悶えするほどに。  それほどまでに、夜顔の中には、罪の意識と苛烈な恐怖が穿たれているのだろう。五百年経った今でも、その記憶は深春をひどく苦しめている。  一日中太陽に熱されたコンクリートの床の上に寝転がってタバコを吸いながら、深春はふっと煙を空に向かって吐き出した。  ふわと、雲のように空へ消えていく煙を見上げていると、なぜだか急に泣きたくなる。  この煙のように、いっそ消えてしまえたら随分と楽だろうと思った。  深春が一番会いたい人物は、この世にはいないからだ。 「……藤之助……」  ぽつりと、タバコを咥えたまま深春はそう呟いた。父であり、師であり、恩人であった佐々木藤之助。かけがえの無い家族。この名を与え、夜顔の居場所となってくれた大きな存在。 「……藤之助。会いたいよ……」  じわ、と涙が浮かぶ。現世での父親に対しては流したことのない涙を、深春は藤之助を想って静かに流した。  この恐怖や罪悪感を、夜顔は随分藤之助に拭ってもらってきた。藤之助がいたからこそ、医師への道を貫けた。  藤之助がいたからこそ、千珠との約束を果たすことができたのだ。  ふと、藤原修一の顔を思い出す。  藤原業平と藤之助は、若かりし頃は共に修行を共にした仲だと聞いていた。だからだろうか、藤原の穏やかなほほ笑みや柔らかい物腰、決して深春を軽んじない言葉をもらうたび、深春は藤之助を思い出し、そしてどこか父親に触れられているような気持ちになるのだった。  亜樹たちとの生活は楽しいし、平和だ。そんな暮らしに、深春は居場所を見出そうとしていた。  しかし、心の底まではその場所に馴染むことは、まだできない。  携帯電話が震え、深春はのろのろとした動きで画面を見た。今付き合っている女からの、居場所を確認するメールである。  正直、鬱陶しい。  付き合っているといっても、セックスをするだけの相手である。そんな女に、こんな精神状態で会いたいと思えるはずもない。深春はメールも電話も無視して、ぼうっと空を見あげていた。  突然、海が見たくなった。  夜顔の見た海はどこまでも暗く重たい灰色だったのに、それでも海が見たいと思うのはなぜだろう。  深春は起き上がって、ため息をついた。  携帯灰皿に短くなったタバコを押し込むと、それをポケットにねじ込んで伸びをする。  藤之助への恋しさを感じたせいか、無性に珠生に会いたくなった。  もう夏休みだ。きっと珠生も、湊も、それに舜平や彰も、また宮尾邸に遊びに来てくれるだろう。  まるで親戚の訪れを待つ小学生のような気持ちで、深春は少し微笑む。  茜色の空を見上げて、深春はもう一本、タバコに火を点けた。    +  深春が帰宅すると、リビングでは亜樹と柚子がなにやら忙しげに動き回っている様子があった。  自室へ行く前に、深春はリビングを覗いてみることにした。 「うわぁ、めっちゃかわいい! ありがとう」 「ううん、いいんよ。古い浴衣やけど、私はこんな鮮やかな色もう着れへんし、仕立て直して正解やわ」  亜樹が鮮やかな緋色の浴衣を広げて喜んでいるのである。白い大きな花弁の花があちこちに描かれた優美な一枚だ。柚子は深春に気づくと、にっこりと笑う。 「おかえり、深春ちゃん」 「ただいま。だからそのちゃんづけ、やめろってば」 「言いやすいからいいやろ。ほら、深春ちゃんにもあるんよ」  柚子は白い和紙の包を、深春にも差し出した。深春はカバンを置いて、その白い紙をめくる。  そこには、紺地に細い白縦縞が描かれた浴衣が包まれている。深春は目を丸くして、柚子を見た。 「私の古い着物をね、二人の浴衣に仕立て直してもらったんよ。深春ちゃんはええ男やから、こういう派手な柄もよう似合うやろうと思ってな」  柚子がにこにこしながら、浴衣を広げて深春にあてがって見ている。深春は気恥ずかしくて、ぶっきらぼうにそっぽを向いた。 「浴衣なんか……いいのに」 「一枚持っとくのもええやろ? わ、やっぱりよう似合うわ」 「ほんまやな。かっこええやん」  亜樹も目を輝かせて深春を見上げている。確かに、暗い窓ガラスに写った自分に、その浴衣は誂えたようによく似合っていた。 「……ありがと」 「それであの女とデートしたらいいやん」 と、亜樹が言った。 「あの女って?」 「前、家に来てたやん。あの派手な美人の」 「ああ……あいつ。もう別れた」 「えっ? 一か月経ってへんやん!」 「束縛してきてうぜぇんだもん。もういいんだ」 「ふうん、器用な奴」 と、亜樹がそっけなくそう言った。深春はソファに座って亜樹が浴衣を畳んでいるのを眺めた。 「綺麗な浴衣だな」 「そうやろ。さすが柚さん」 「それ着て、花火でも行くわけ?」  ぴく、と亜樹の手が止まる。少しばかり頬を赤く染めた亜樹が、ちらりと深春を見た。その新鮮な反応に、深春はちょっと目を丸くする。 「あれ、図星?」 「……五月蝿い」 「まじでか! 誰と行くの?」 「……学校の友達」 「男? 男?」 「ああもう、五月蝿いな。柏木とその彼女と……沖野や」 「えっ、珠生くんと行くの!? いつの間にそういう関係になってたんだよ!」  深春は楽しげに笑ってソファに転げながら、亜樹に畳み掛けるように尋ねる。 「え、なに? どっちから誘ったの?」 「言うんじゃなかったーほんま」 「いいじゃん、ねぇ、教えてよ」 「柏木にみんなで行こうって誘われてんって。うちも沖野も花火大会行ったことないからって」 「ああー、なるほどね」 「だから沖野とどうこうってわけちゃうわ」 「ふうん。でも人ごみでもまれてたら、どうなるか分かんないじゃん」 「五月蝿い、スケベ! もういいやろ」 「いつ行くの?」 「明日。宇治川」  亜樹はつんとしてそう言うと、包み紙を丁寧に閉じて両手で押さえる。 「あんたは行かへんの?」 「俺? うーん、ちょっと今はそんな気分じゃないからなあ」 「そうなん? 悪い夢、見てんのか?」  深春の事情を知っている亜樹は、心配そうな顔になって深春を見た。いつもつんつんしている亜樹だが、基本的には心配性で優しい姉のような存在なのである。深春は苦笑して首を振ると、「夏バテだろ」と言った。  心配性な亜樹を、あまり不安にさせまいと気を遣って、深春は無理に笑ってみせる。亜樹の表情は晴れないが、気を取りなおしたように息をつくと立ち上がった。 「……まぁ、それならいいけど……。なんかあったらうちにも言いや」 「おう、ありがと」 「ほら、ご飯食べよ」 「うん」  色気のないジャージ姿の亜樹について歩き、深春は食事を摂るべくダイニングへと向かう。  優しい人達に囲まれた生活を送っているのに、心は冷えてどこまでも遠い感じがした。笑っている自分が、うそ臭い。  食事の時も、きっと自分はうそ臭い笑みを浮かべ、楽しげにお喋りをする。そうすることで、この二人を安心させることができるからだ。  ――じゃあ俺は、いったいどこで本当の自分になればいい? 誰の前で、この苦しい思いを吐けばいい。  深春は人知れずため息をついた。  そんなため息を、亜樹はしっかりと聞いていた。

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