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三十一、彰との未来

 宇治川の花火大会で混みあった電車に乗って、葉山は帰宅の途についていた。今日は大阪に出張に行っていたのだが、JRから地下鉄に乗り換えた途端、浴衣に身を包んだ男女の群れに出くわして驚いてしまった。  しかし明日は京都へ来てから初めての休日であるため、葉山の足取りも軽い。今夜は、彰が食事を作ってくれると言っていた。  「あんた料理まで出来るわけ?」と、あまり料理の得意ではない葉山がやや喧嘩腰にそう言うと、彰は笑って、「父の料理があまりにも独創的すぎるから、母親の味を再現してみようとしただけだよ」と言った。  母を亡くしてから、男所帯になった斎木家である。あまり器用そうではない、朴訥とした父親の料理を苦笑いしながら食べている彰を想像すると、なんだか微笑ましい。  葉山は彰の言葉に甘えることにして、今夜はゆっくりさせてもらうことにしたのである。  すでに家で待っているという彰からのメールを見て、葉山は少し微笑んだ。なんだかんだと言って、家で誰かが待っていてくれるというのは嬉しいものである。  葉山はいそいそと帰宅し、マンションのエントランスに入る。コツコツとヒールの音を響かせてエレベーターに乗り込むと、急ぎ足でそのエレベーターに乗ろうと駆けてくるスーツの男がいた。  ”開”ボタンを押して待ち、駆け込んできた男の顔を見て、葉山は目を疑った。 「……宗ちゃん?」 「あれ、彩音?」  幼馴染の更科宗太(さらしなそうた)が、黒いスーツで暑そうに汗をかきながら入ってきたのだ。 「彩音、いつから京都に赴任したんだ?」 「つい先週……、宗ちゃんって、京都にいたの?」 「そうだよ。といっても四月からだけどね……そっか」  一向に動き出さないエレベーターに、葉山はふと階数ボタンを見た。まだ何も押していない。 「何階?」 と、葉山は尋ねる。 「五階」 「え、同じフロアなの? 何号室?」 「五〇三だ」 「私は五〇一。良かった、お隣ではないのね」 「なんで安心してんだよ」   更科は笑って、また汗を拭う。この時期に黒いスーツ、きっちりとしたネクタイはかなり暑そうだ。  エレベーターが五階に着き、二人は同時にエレベーターから降りた。葉山の部屋はエレベーターから一番遠い角部屋であり、宗太はエレベーターのすぐ横の部屋だった。 「どう? また時間が合えば飯でも。久しぶりに、同じ県に赴任したんだし」 「そうね……」 「彼氏が怒る?」 「どうかしらね」 「あ……彼氏いるんだ」 「え、ええ、まぁ……」  更科の部屋の前で立ち話をしていると、葉山の部屋のドアが開く音がした。葉山がふとそちらを見ると、出かけようとしている彰と目が合う。  更科の顔が、一瞬固まる。彰も首を傾げて、更科の顔をしばらく見つめた。 「……おかえり、葉山さん」  何となく流れた沈黙を、彰の言葉が遮る。葉山はぎこちなく笑って、「ただいま」と言った。 「え。彩音の彼氏って……あの子……? 佐為様の……」 「え、ええ、そんなとこね」  見られてしまったものは仕方がない。葉山は首を傾げて微笑むと、歩み寄ってきた彰を見あげた。彰は笑みを返してから、更科の方を見た。 「どうも。更科宗太です。彩音がお世話になっているそうで」 「彩音?」  ぴく、と彰の表情が硬くなる。葉山も、そんな更科の行動に驚き、目を丸くして更科を見あげた。  更科の目は、決して好意的な色をしていなかった。彰に対してライバル心をむき出しにするような、ギラリとした色をしている。 「ああ。幼馴染なのよ。今そんなふうに呼ばないで」 「あ、ごめんよ」 「そうなんですか。いえ、お世話になっているのは僕の方ですよ」  そんな更科の目を受け流すように、彰はにっこりと微笑んでみせた。しかしきっと、その目は笑っていないのだろうと葉山は思った。 「そっか……彩音の言う強い人ってのは、そういう意味か」  更科は、得心がいったというような顔で、葉山を見下ろす。 「なるほど、僕じゃだめなわけだ」 「ちょっと……」  二人の過去の関係を蒸し返すような台詞に、葉山はぎょっとして更科を見た。続いて彰を見上げると、いつもと変わらぬ平静な横顔がそこにあるだけである。 「まぁ、どうぞ今後とも、お見知りおきを」 と、言って彰はまた微笑んだ。そして葉山を見ると、「ちょっとコンビニに行ってくるよ」と言う。 「あ、うん……」 「それでは、また」  彰は丁寧に一礼し、そして唇に薄笑みを浮かべた余裕綽々の表情を更科に見せると、エレベーターに乗って行ってしまった。  後に残された格好の二人は、しばらくまた黙り込んだまま立っていた。 「……あの佐為さまの生まれ変わりと付き合うなんて……やっぱり君は、自分よりも強い男が好みなんだな」  更科は自嘲するようにそう言って、歪んだ笑みを浮かべた。その顔は、葉山と別れると言い出した時の顔と同じで、葉山の心にチクリと痛みを蘇らせる。 「……強いっていうのは、そういう意味だけじゃないわ。彼は人間的にもすごく大きな人よ」 「まだ学生だろ? あんな若い男……本気で君と付き合ってるのかな。彩音、遊ばれてるんじゃないのか?」 「何よそれ」  葉山はむっとして、更科を睨みつけた。自分のことをどうこう言われることはいい。しかし、彰の人格について、何も知らない更科にとやかく言われることについては、無性に腹が立った。 「あんたの、つまらないことにこだわるそういう性格が、昔から嫌だったのよ」 「つまらないこと……って」  更科の顔にも怒りが浮かぶ。それでも葉山はひるまない。 「彼のことを何も知らないくせに、知ったような口をきくのはやめてくれる? 男の器に年齢が関係ないことが、今はっきりわかったわ」 「なんだよそれ……!」 「宗ちゃんはいつもいつも、昔から私のやることにとやかく言うばかり。そんな事してる暇があるんだったら、もっとほかにすることがあるんじゃないの?」  葉山は怒り心頭の表情のまま、すたすたと自室に入っていってしまった。  バタン、という重いドアの音が、更科の耳に虚しく響く。  更科はどうしようもない気持ちのまま、乱暴に鍵を空けて自室に入った。しんとしたマンションの廊下に、エレベーターの到着する音だけが、静かに響いた。  +  葉山は苛立った気持ちのまま、バッグをソファに乱暴に置いた。  更科は幼馴染であり、大切な家族のような存在でもある。だが、あんなことを言われてはこちらも黙ってはいられない。  彰は、どう思ったろうか。更科のことを嫌いにならないで欲しいという思いもあるが、あんな姿を見られては彰への印象はよくないはずだ。 「……はぁ」  ため息をついていると、ドアが開いて彰が戻ってきた。小さなビニール袋をさげて、彰がリビングに入ってくる。 「どうしたの? 溜息ついて」 と、彰は何事もなかったかのような涼しい顔で、そう言った。 「……ごめんなさいね。更科があんな面倒な事言って」 「あの人、更科っていうんだ。昔、顔はちらっと見たけど、あんまり覚えてなくて」  彰は冷蔵庫に何やら仕舞いこみながら、そう言ってキッチンに立った。食事を温めなおすのか、カウンターの向こうでてきぱきと立ち働いている。 「昔の恋人?」 と、彰は葉山を見ずに尋ねた。 「……ええ。上京前、半年ほどね」 「ふうん。幼馴染で元恋人か。葉山さんがふっちゃったの?」 「いいえ、私が振られたのよ」 「え? そうなの。馬鹿なやつだな」  彰はすっと顔を上げ、目をぱちくりしている。その理由については、尋ねては来なかった。 「……大昔のことよ。短かったし」 「ふうん。まぁ葉山さんは大人だから、人生経験も豊富なのはわかってたことだ」 「……豊富ってほどじゃないんだけど」 「大方、葉山さんの優秀さにコンプレックスを抱いて、プライドを傷つけられたというところかな?」 「……よく分かったわね」 「強さにこだわっているようだったからね」  彰は微笑んで、食事の支度を整えてくれている。ふわりと漂う出汁の香りに、葉山の腹の虫が反応した。 「いい匂い」 「和食だよ。着替えてきたら?」 「そうね……」  葉山が部屋着の綿パンにTシャツという色気のない格好に着替えて戻ると、二人がけのダイニングテーブルには、すでに見事な和食が並んでいた。早良の西京焼き、青菜のお浸し、胡麻豆腐、味噌汁、そして白米である。  そんな家庭的な食事が久しぶりな葉山は、目を輝かせた。 「すごい! これ全部、彰くんが作ったの?」 「まぁね。あ、でも胡麻豆腐は買ってきただけだよ」 「美味しそう、食べよう」 「うん」  彰は嬉しそうに笑い、さっさと座って手を合わせている葉山の前に座った。二人して合掌し、「いただきます」と言う。 「うわ、美味しい。あなた、本当になんでもできるのね」 「お口に合ったのなら良かったよ」  彰は味噌汁をすすりながら、淡々とそう言った。京都育ちの彰らしい、控えめな味付けに舌鼓を打ちながら、葉山は更科のことなど忘れて食事を楽しんだ。 「……まぁ、元彼の出現というのは、本来ならば危惧すべき場面なのかもしれないけど……」  彰が不意にそんな事を言う。まるで独り言のようだ。  葉山が顔を上げると、彰はお浸しに箸をつけながら首をひねっている。 「危惧すべきなのかな……?」 「何言ってんの?」 「まぁ、僕には関係ないか。僕はあの人に葉山さんを奪われるつもりもないし」 「……人をものみたいに言わないでちょうだい。なにブツブツ言ってんのよ」  ややどきりとしながら、葉山はつんとした口調でそう言った。 「ていうか、あなたは何から得た情報を基にに考え事をしてるわけ?」 「いろいろだよ。小説、漫画、テレビドラマ……人間関係を色々と、高校生の時に勉強したから」 「勉強? あはははは、そうなの?」  大まじめにそんな事を言う彰を見て、葉山は思わず吹き出した。大まじめに少女マンガや恋愛ドラマを観ている彰を想像すると笑えてしまう。彰はどことなく憮然とした表情で顔を上げた。 「なんで笑うの?」 「いや……なんか……可愛いとこあるのね、あなた」 「……可愛いって……」  彰が居心地悪そうな顔をして、再び食事に目を落とす。 「僕の得た結論としては、その場で感じたものを、そのまま言葉にするのが一番いいってのとだな」 「ほうほう。そうなの。で、今は何を感じたの?」 「……更科さんは、あんまり好きじゃない。葉山さんを彩音って呼ぶところが気に食わない」 「……あらそう」  彰の素直な言葉に、葉山はまた笑った。彰はちらりと不機嫌そうに葉山を見上げ、続ける。 「どうせ葉山さんも、あの人のことあだ名で呼んでるんだろ? そう言う親しげなところが気に食わない。でも幼馴染だから仕方がないかなと、気持ちを整理しようとしているところだ」 「……なるほど」 「なんて呼んでたの? あの人のこと」 「え? そんな事聞くの?」 「いいじゃん、教えてよ」 「……宗ちゃん、って呼んでたわ」 「……気に食わない」 「あんたが聞いたんでしょ」 「そうだけどさ」  彰は本気で少し淋しげな顔をすると、ことんと箸を置いた。葉山は肩をすくめて、同じように箸を置く。 「彰くんも私のことを名前で呼んだらいいじゃない」 「え? いいの?」 「いいわよ」 「本当?」 「呼び方なんて、何でもいいのよ」 「ふうん。じゃあそうする」 「あらそう。それで気持ちは片付いた?」 「……まぁね。それと付け加えるなら……」 「今度は何?」 「葉山さんが僕の作ったものを美味しそうに食べてくれるのが、とても嬉しい」 「……ああ、だって、美味しいもの」 「僕は幸せだ」 「……馬鹿ね」  にっこり笑う彰は、とても愛らしい。そして今まで、敢えて本気で考えようとしてこなかったことを、リアルに考えてみようという気持ちが浮かび上がる。  彰との、未来のこと。  再び箸を取った彰を見つめたまま、葉山もまた箸を持つ。 「彰くん……」 「何?」 「私、料理は苦手よ。家事もあまり得意じゃないわ」 「知ってるよ」 「……そうあっさり返されると、身も蓋もないわね」 「それがどうしたんだい?」 「それでもいいの? 今後、色々と面倒よ」 「何言ってるの? 葉山さん。僕は全く構わないよ」 「……ならいいの。一応、確認しておこうと思っただけ」  彰はきょとんとして、葉山を見つめた。 「それって、もっと具体的に、僕との先を考えているという台詞と受け取っていいのだろうか」 「……いいわよ」 「本当に?」 「五月蝿いわね、そうじゃなきゃ、こんなこと言わないわよ」  葉山が憮然としてそう言うと、彰は嬉しそうに顔をほころばせた。まるで雲の隙間から太陽が現れるような、明るい笑顔だった。 「彩音(あやね)」  彰に初めて下の名で呼ばれた。  葉山は、思いの外どきりとしてしまう。 「は、はい」 「……ちょっと呼んでみただけだよ」 「あ、あ、あらそう。……食べましょ、冷めちゃうわ」 「そうだね」  彰はにこにこと笑ったまま、再び食事を取り始めた。嬉しそうな彰の顔を見ているだけで、自分がいかに愛されているかということを実感してしまう。それはとても、幸せな感覚だった。 「この間、彼氏をその気にさせるには、胃袋を掴みましょうってテレビで言ってたんだけど、その通りだな」  楽しげにそんな事を言う彰の台詞に、葉山はため息をついた。 「あんたね、そういうことまで素直に言うのはやめなさいよ」 「あ、そうか。しまった」 「全く……」  それでも二人は笑い合って、食事を続けた。  楽しい笑い声が響く食卓が、こんなにも幸せだということを、葉山は久しぶりに実感したのだった。

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