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四十、蜜雲と湊

 携帯電話のアラームが鳴る。  珠生は耳慣れたその音に身動ぎすると、いつもの様に手を伸ばしてアラームを止めようとした。しかし、身体が動かない。 「……あれ」  背後から舜平に抱きかかえられるような格好で眠っていたことに気づくと、珠生はもぞもぞとその腕を抜けて身体を伸ばし、反対側の枕元に置いていた携帯電話を手にとってアラームを止めた。  舜平を乗り越えるような格好のまま、珠生は改めて舜平の寝顔を見下ろす。  舜平は寝覚めのいいほうだ。少しの刺激ですぐに目覚め、すぐに活動できるタイプである。しかし、今日の舜平はぴくりとも動かずに、眠り続けている。 「……ほんとに疲れてんだ」  舜平は基本的にいつも健康だし、誰よりも元気で情緒も安定した青年であるが、ここ数ヶ月の卒業論文作成という慣れない作業に、だいぶと疲れているようだ。珠生はうつ伏せになり、舜平の珍しい寝顔をしげしげと見つめた。  濃い眉、艶としたまつ毛、健康的に焼けた肌。しっかりと筋の通った鼻筋に、形の良い唇。少し伸びた髪の毛が目にかかりそうになっているが、そうしていると、本当に舜海そのもののような外見に見える。  前髪をよける珠生の指先の感触に刺激を受けたのか、舜平が微かに呻いた。  そしてやおら珠生を再び抱きしめると、布団の中に引っ張りこむ。 「うわっ」  ぎゅううう、とぬいぐるみか布団でも抱きしめるかのような雑さで抱きしめられ、珠生は苦しさに脚をばたつかせる。 「ちょっと、苦しいよ!」 「うーん……」  これでも起きる気配がないとなると、本当に疲れているのだろう。舜平が寝ぼける姿など初めて見る珠生は、暴れるのをやめた。舜平は腕の力を緩めると、いつもそうするように、大切に大切に、珠生の背中を抱き寄せた。無意識にやっているらしいその動きを感じて、珠生は思わず舜平の顔を見上げる。  すうすうと寝息を立てているところを見ると、本当に無意識らしい。珠生は手を伸ばして舜平の頬をはさむと、そっとその唇にキスした。  しばらくされるがままになっていた舜平であったが、ふと珠生の動きに反応してキスを返すように唇が動く。徐々に深さを増すその動きに、珠生は思わず唇を離した。  ようやく、舜平は目をうっすらと開いた。 「……ん」 「……おはよう」 「あれ、なんで……」 「昨日、泊めてもらったから」 「……え、ああ……そっか」  寝ぼけ眼の舜平は、場所を確認するように視線を巡らせた。自室であることを理解してほっとしたのか、舜平は手首にはめたままだったスポーツウォッチを見て、ため息をつく。 「はぁ……起きなな……」 「舜平さん、ほんとに疲れてんだね」 「いや……そんなことないで」 「珍しいよ、こんなにすっきり起きないなんて」 「あぁ……まあ、ここんとこちょっとな」  話していると目が覚めてきたのか、舜平の表情に徐々に張りが戻ってくる。改めて珠生を見下ろした舜平は、もう一度ぎゅうっと珠生を抱きしめた。 「ちょ、何してんだよ、起きるんだろ!」 「……もうちょっと」 「何甘えてんだよ、遅刻するよ」 「あと五秒」  舜平は珠生の匂いをかぐように深く息を吸うと、ゆっくりと吐いた。すりすりと珠生の額や髪に頬を寄せては、珠生を抱き締めた腕に少し力を込める。 「舜平さん……どうしたの」 「……気持ちええなと思って」 「骨っぽいよ」 「お前は肌がきれいやから……」 「……」 「珠生……」 「ん?」 「……あー、したいなぁ……」 「やめてよ。実家だろ」 「もうええやん、そんなん」 「ダメだってば!! もう、起きてよ!」  珠生の上にのしかかろうとしてくる舜平の手をなんとかかいくぐりながら、珠生はバタバタと暴れた。舜平はそんな珠生の抵抗など慣れたもので、むしろ楽しげに珠生が暴れるのを見下ろしていた。  舜平の唇が首筋にゆっくりと降りてくる。珠生はぎゅっと目をつむった。  その時、ノックもなくがちゃりとドアが開いた。 「おいおい、朝から何を騒いでん……ね……」  舜平の兄、将太が顔を出したのだ。珠生がぎょっとして固まっていると、将太も同じくらいぎょっとして固まっている。ゆっくりと振り向いた舜平は、兄の姿を見て徐々に顔色を変えていく。 「……あ、兄貴」 「舜平、お前……何を……」  舜平は慌てて珠生の上から飛び退いた。  +  その晩、湊は彰と会う約束をしていた。  学校の様子や珠生、亜樹、深春のことで、湊の客観的な意見が聞きたいと、彰が呼び出したのである。  彰に指定された場所は、いつぞや舜平に呼び出されたこともある、今出川駅すぐのコーヒーショップだ。一旦帰宅して夕食を済ませ、湊はジーパンに深いグリーンの薄手のニットを着ただけの薄着で外へ出た。  店に入って中を見回すと、奥の方のボックス席に彰が座っているのが見える。 「先輩、お疲れ様です……。この人は?」 「やぁ湊。久し振りだね」  小首をかしげて微笑む彰の隣には、やたらとギャルギャルしい女が座っている。艶かしいグラマラスな肉体を黒いシャツとスキニーデニムで覆っているが、たっぷりとした長い髪や豊満な肉体は隠しようがない。婀娜っぽい表情はお色気たっぷりで、とにかく目立っている。 「……彼女ですか?」 「……そう見えるかい?」 「いいえ」 「そうだろうね」  その女はやおらボックス席のソファの上に正座して、じっと湊を見上げた。 「お初にお目にかかります。わたくし、蜜雲と申します」 「……はぁ」 「わたくしは佐為さまの使い魔。化け狐でございます」 「……ほう」 「……僕が話しほうがよさそうだな。君は牛乳でも飲んでなさい」 「承知いたしました」  マグカップに注がれた牛乳を、蜜雲は恭しく口に運ぶ。そんな異様な風景を観察しつつ、湊は彰を見た。 「使い魔で化け狐というのは本当だ。僕が大昔から育てていた妖だから、信頼出来る」 「おお……ありがたき幸せ。佐為さまがそこまでわたくしめのことを、」 「静かに」 「はっ」  蜜雲が口を挟むので、彰はやれやれとため息をついてから続けた。 「実はここ数週間、この蜜雲に明桜高校を張らせていた。気づいたかい?」 「えっ……いや、全然……。えっ? その格好で?」 「いえいえまさか。わたくしはじょしこうせい、」 「あのね、黙っててくれる? ……まぁ、それならうまくいっていたってことだな」 と、彰は笑ってコーヒーをすすった。 「なんでまた?」 「僕は卒業してからそちらへ全然行けてないからね。ま、情報収集と見張り、というところかな」 「そうですか……」 「学校に張った結界はうまく働いているようだし、そのへんは安心しているんだけど。学校の中はどうだい? 珠生と亜樹は落ち着いているか?」 「天道は落ち着いてます。けど珠生は、ちょっと不安定な感じやな。深春の問題につられてか、どうも最近落ち着かへんのです」 「ふうん……どうしたんだろうね。舜平は何してんだか」 「舜平は卒論で忙しいから甘えたくない。だから会ってへんて言ってました」 「そのせいかな」 「……なんとなく、それだけじゃないような気もします。なんか……あいつ最近、ちょっと変……っていうか……あ、こんなぼんやりした意見で、すみません」 「いいや、いいんだよ。予想はしていた」 「と言いますと?」 「能登で、少しばかり異変が起きている」 「……えっ」 「水無瀬紗夜香の母親の居場所が分かったんだが、感知した途端にまた姿を消してしまったらしい。きっとこちらの探りに気づいたんだろう」 「何をするつもりなんです?」 「まだ分からない。……が、雷燕の封印場所近くで発見された後、また消息を断った辺りが気持ち悪くてね。紗夜香には何の連絡もないようだし、あの子はあの子でまだどこまで信頼出来るか分からないから、中途半端な情報は与えにくいし」 「そら、親子ですもんね。特別な感情もあるやろうし……」 「そう。だから、明桜と宇治には使い魔を張らせているって言うわけだ。一応、君には紹介しておこうかと思ってね」 「成る程」  掌の上にマグカップを載せ、蜜雲はじっと目を閉じて話を聞いている様子だ。二人の注意が自分に向いたことを察してか、蜜雲は目を開いた。 「どうぞ、以後お見知りおきを。湊殿」 「こちらこそ」  深々と頭を下げる蜜雲に、湊は軽く会釈をした。 「さて、蜜雲の手下によると、深春にも変化は今のところないそうだ。学校へ行き、女と遊び、家へ帰る。……喫煙は未だにしているようだけど、まぁ……見逃そう。服飾科でそこそこ真面目に勉強しているようだしね」 「そうですか。よかった」 「宇治の方も今のところは特に問題はないようだが、珠生は妖力が強い分、色々な影響を受け易いからなぁ……」 「そうですね……千珠さまだった頃も、雷燕の妖気にえらい反応してもうてたし……」 「今回も、何かしらぴりぴりとしたものは感じ取っているのかもしれない」  彰はもう一口コーヒーを飲むと、じっと目を上げて湊を見た。 「今もし、雷燕の封印が破られるようなことがあったら……それこそ一大事だ。前世では、千珠の力と陰陽師衆の先鋭での術式でやっとこさ封印できた雷燕の力……現世でどこまで太刀打ちできるか分からない」 「……そうですね」 「珠生は、千珠の頃と比べてまだ六分くらいの力だろう。それに、以前と違って普段から戦いの中に身を置いているわけではないからね」 「はい」 「少し備えておいたほうがいいかもしれないな。僕を含め、皆がね」 「先輩は、絶対に何かが起こると思ってはるんですね」  湊の言葉に、彰はふっと微笑んだ。 「念には念を、だ」 「先輩好きやなぁ、その言葉」 「ははっ、そうだね。何も起こらないと思いたいが、楽観視できる状況でもないのでね」 「ですね。珠生たちには伝えますか?」 「いや、今はいい。知ればきっと、もっと彼は揺れるだろうから」 「そうやな……」  彰は隣で目を閉じて話を聞いている様子の蜜雲の頭を、ぽんぽんと撫でる。傍目には、年下の彼氏に甘やかされているかなり年上の恋人……くらいには見えるだろうか。 「何かあったら、湊が蜜雲を使え。こいつはひと通りの防御結界くらいは使えるから」 「ありがとうございます」 「なんなりと、お申し付けを」 と、蜜雲。 「普段はどこにいるん?」 と、湊が蜜雲に問うと、蜜雲はあざとらしい仕草で人差し指を唇に当て、小首を傾げた。 「名を呼んでくだされば、いつでも現れまする」 「へぇ、便利やな。……ところで、その動きはどこで習ったん?」 「てれび、というもので学んだのでございます。おなごがこういたしますと、男たちが喜んでおるようでしたので」 「……ほう、そうなんや」 「まぁ、熱心なんだ。なにか気になることがあったら指摘してやってくれ」 と、彰は湊の反応を可笑しそうに笑いながらそう言った。

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