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2「それはしたたかな」
ふわりと積もった綿雪の上に伏せ、じっと直線上を見詰める。腹に仕込んだカイロが、じんわりと暖かい。空は明るく澄んで、陽光が雪をきらきらと輝かせている。
向かい側に、黒髪の青年──コトリがいる。コトリは〝小鳥〟と書くらしい。本当の名前は分からないから、本に書いてあった好きな単語を呼び名にしたのだとか。
コトリが、二本の指を立てて合図した。目を凝らし、集中する。
丸々と脂肪を蓄えたイノシシが、大きな鼻で雪を掻き分け、新芽を食べている。春になれば、この場所には辺り一面に綺麗な花が咲く。新芽を喰らう害獣のせいで、芽吹きが少なくなるのは悲しいことだ。
だからというわけでもないが、コトリはそれを狩り、自らの糧にしている。腹も膨れて、害獣も減る。まさに、一石二鳥だ。
狩りの前に打ち合わせたポイントに、イノシシがのそのそと移動する。アヤトがナイフを取り出し、張っておいた縄をザクリと切った。
雪で覆われた地面から、突如、網目状の罠が出現──イノシシを捕らえ、その動きをがんじがらめに封じる。
「ブギィッ!!」
悲鳴をあげて暴れ回るイノシシの額に、赤いポインターが示される。コトリの猟銃が放つポインターだ。急所を狙い、苦しませずに狩るのが、せめてもの救いである。
「今日の糧に、感謝します」
真っさらな空気が、コトリの小さな呟きを届けてくれた。撃ち抜く瞬間、アヤトが目を閉じる。ドスン、と鈍いサイレンサーの音がして、悲鳴はぴたりと止まった。
生きることとは、奪うことだ。
***
「この猪肉があれば、暫くは狩りをしなくて済むよ! 手伝ってくれてありがとう。アヤト君」
コトリが、キッチンで手際よく料理をしている。大きな肉の塊を抱えて、満足気に笑った。
「いや、こちらこそ世話になってすまないな」
テーブルの上を片付けながら、アヤトが答える。慣れた手つきで皿をセットしつつ、出来上がった料理を運んでいく。
此処に来てから、早くも数週間が経った。肝心の記憶は、欠片すら戻ってこない。衣服や所持品を探り、物思いに耽ったりもしてみた。だが、全くもって効果はない。
「困った時は助け合いですよ。いやあ、それにしてもアヤト君が来てくれて、毎日賑やかだし……人生で初めて、日々を過ごすのが楽しいと思えているかも知れません!」
「大げさだろ」
「そんなことないですよ!」
メインディッシュの猪肉シチューが運ばれて、エプロンを外したコトリが席に着く。アヤトも椅子を引き、腰掛けた。
「いただきます!」
「いただきます」
同時に手を合わせ、食事に手をつける。コトリは料理が上手い。味だけにとどまらず、見た目や色合いに至るまで、よく演出されているのだ。これも、本で得た知識なのだろうか。
きっと、いい嫁になる。
……だなんて、何を考えているのだろう。
「狩りだって、一人であんな大きな獲物を捕まえるのは随分苦労しますし。食事も、二人の方が楽しいじゃないですか」
「そう言ってくれるのはありがたいよ」
「……分かってます。アヤト君だって、きっと家族や友達が心配してるだろうし……早く故郷に帰りたいでしょうね」
「………………」
「でも、僕は。ずっと一緒にいれたらいいなって……愚かにも、そう思ってしまうんです」
シチューをぐるぐるとかき混ぜながら、コトリがシュンと眉を下げた。
「……コトリ」
「記憶が戻ったら、記憶を失っている間のことを忘れてしまうって……本に書いてありました。アヤト君は、僕のことを忘れてしまうのでしょうか……。僕、そんなの絶対──!!」
ガチャン。
アヤトがテーブルに手をついた衝撃で、食器が音を立てた。
自分でも、何を考えていたのか分からない。ただ、その先を言わせたくはなかった。少なくとも、自分自身──それだけは絶対に嫌だ、と強く思っていたのだ。
目の前には涙を溜めたコトリの顔。驚いたような表情。その理由は、この唇が交わした──、
「アヤトく、」
キスのせいだろうか。
「約束したじゃないか。新しい本を持ってくるって。だから、お前のことは絶対に忘れないよ」
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