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5「交錯する二つの」
***
──「うっ……」
あろうことか、気を失っていたらしい。
全身がズキズキと痛む。記憶が酷く混乱しているが、恐らく〝怪物〟にやられたか──。
暗く、湿気た空気が満ちている。雪除けに逃げ込んだ洞窟の入り口から、凍った風がびゅうっと吹き付けた。外は猛吹雪。この場所をみつけたのは、不幸中の幸いか。
装備品は、どこかで失くしたらしい。しかも一式だ。これでは、怪物退治はおろか、山を降りることすら絶望的ではないか。
「チクショウ! 俺としたことが、ドジを踏んじまったぜ……」
少なくとも、雪がやむまでは何もできない。諦めて脱力し、冷たい地面にごろりと寝転がる。腹も減ってきた。食料など、あるはずもない。
「啖呵切って町から出てきて、こんなところで死ぬのかよ。ハハッ、ダサ過ぎンだろ」
と、けぶる雪景色の向こうに、怪しげな光球が現れた。
「……何だ?」
思わず身体を起こし、目を凝らす。光は、ゆらゆらと左右に揺れながら、徐々に近づいてくる。ついに、幻覚が見えるレベルにまで衰弱してしまったのか。
遠くから、声が聞こえる。何かを叫んでいるようだ。
「……ヴ。……クレ……! クレイヴ!!」
聞き覚えのある、男の声だった。まさか、仲間が助けにきたのか?
「俺はここだ!!」
思いのほか、大きな声で答えた。光球に見えていたランプの明かりが、今度は激しく揺れながら駆け寄ってくる。雪の中でぼんやりとしたシルエットが、輪郭をあらわにしていく。
現れた赤髪の大柄な男は、その姿を見つけるなり目を見開いて驚愕した。そして、わなわなと謎に震えながら、少年──クレイヴの側に立つ。
彼が防寒着や、一通りの装備を持っていることに、一先ず安堵した。
「クレイヴ。本当にクレイヴなんだな! ああ、よく無事だった……!」
「おいおい、何をそんな大げさに。ちょっと遭難しかけただけだろ、オッサン」
「ちょっとどころか、完璧に遭難してるじゃねぇか! せっかく助けにきてやったってのに、オッサンはよせ」
「ああ、悪い。……グレン」
グレン、と呼ばれた男は、大きなリュックから救急箱を取り出し、慣れた手つきでクレイヴの怪我を手当てし始めた。
「痛ぇよ! もっと丁寧に扱え!」
「そんだけ元気なら大丈夫だ。憎まれ口も健在だしな。骨は折れてねぇ、良かったな。少し休めば歩けるようになる」
「そうかよ」
「……町の奴らは、こぞってお前を死人みてぇに言いやがる。現に、いなくなったお前を捜索し続けたのは俺とレイチェルだけだった。……ああ、そうだ。アイツにも早いとこ連絡しねぇと」
「レイチェルが?」
それは、幼馴染みの名前だった。クレイヴに次いで怪物狩りとなったが、どうにも筋が悪く、さらには病弱である。山どころか、平地すらまともに走れそうにない。そんなか弱い少女が、この険しい雪山に自分を捜して訪れているのかと思うと、逆に不安に駆られた。
「あいつ、一人で大丈夫なのか?」
「お前がいない間、俺がみっちり仕込んでやったからな。今ではもう、一人前のハンターだよ」
「そんな短期間で一人前たぁ、アンタも女には甘いな」
「……短期間って、お前なぁ」
「で? その優等生チャンは今、どこで何をしてるわけ?」
「それがな、クレイヴ。朗報だ。ついに、ヤツの住処がわかったんだよ。町の図書館に、古い記録があってな。……どうやら、研究者の手記のようだが──唄う怪物・セイレーンに関する」
グレンの差し出した、ボロボロのノートを開き見る。
達筆な筆跡が綴る文字を、さらりと流し読んだ後。もう一度、今度は一文字一文字を、噛み締めるように辿った。
「セイレーン……? ……セイレーンの、歌……」
「おいおい、いつまで寝ぼけてるんだよ! お前はそいつを追ってこの山に来たんだろうが」
クレイヴの脳裏に、ぼんやりと記憶がよみがえる。それは、聞き慣れない異国の言葉で紡がれる、切なく悲しい歌……。
「……なあグレン。俺は──、」
***
コトリが異変に気付いたのは、アヤトが外出して一時間ほど経った後だった。
(遅いな、アヤトくん……)
食卓には、いつものように料理が並んでいる。出来上がる時間に戻らないことなど、今までにはなかった。まさか、遭難……?
そう思った時には、すでに家を飛び出していた。空はどんよりと曇っている。まずい、これは大雪の兆しではないか。
この辺りには影響ないが、場所によっては猛吹雪になる。
「アヤトくん!! 聞こえるなら返事をしてください!」
声は雪に反響して、虚しくこだました。辺りを見回しても、彼の姿はない。
唯一、彼の進んだ痕跡を残す、真新しい足跡だけが救いだった。
それを辿るべく、一歩踏み出す。シンと冷たい空気が、彼を失うかもしれないという不安を掻き立てる。彼と出会うずっと前から、この凍った空気を知っているはずなのに。
人間の身体は弱い。心は、それよりずっと弱い。
母が死んで、すぐに父も死んだ。そうしたのは身体の異常ではなく、心の寂しさだった。
アヤトは、きっと雪山に一人では生きていられない。
何故なら、人間は総じて脆弱だからだ。身体が冷えれば、心も急速に冷えていく。
そうして、呆気なく死んでしまう。
「アヤトくん! お願い!! 返事をしてください! アヤトく──!」
パンッ。
「……え……?」
乾いた音がして、目の前に血飛沫が舞った。
それが自分の血だと気づいた瞬間、ぐらりと視界が傾ぐ。ボスッ、と雪の上に片膝をつくと、おびただしい量の血がキャンバスを赤く塗った。それは悔しくも、美しい芸術などではない。毒々しく、恐怖すら感じる絵画の下描きに違いなかった。
「ようやく見つけたわよ! 〝怪物〟──セイレーン!」
痛みに顔を歪めつつ振り返ると、そこには猟銃を構えた少女が立っていた。
「さあ、クレイヴはどこ? 答えなければ命はないわ!」
ぐっ、と銃口が突き付けられる。
「クレイヴ……? それは、一体」
「とぼけないで! 私の幼馴染みを半年も、こんな山の上に幽閉しておきながら……タダで済むとは思わないことね」
「そう、ですか。……貴女は、アヤトくんの」
「……〝アヤト〟。どうしてその名前を知っているの?」
「僕は、クレイヴなんて人は知りません。ずっと傍に居たのは、アヤトくん……彼です!」
追撃の銃声が、二発。至近距離で撃たれた肩口が、花開くように真っ赤に染まった。
雪の上に倒れたコトリの形を、赤い血が瑞々しく彩っていく。
「ますます気に入らないわね。やっぱり貴方は殺すわ。懸賞金もたくさん出るもの」
「……ぐっ、う……」
「そして、わからせてやるのよ。怪物なんかに夢中になって、私との婚約を破棄したあの人 に!」
勘任せに辺りを探ると、指先に猪狩りのロープが触れた。痛みを堪えて、持ちうる力を振り絞り、起動仕掛けであるそれをブツリと引き千切る。
「キャッ!??」
雪の下から網が現れ、少女をすっぽりと包んで捕らえた。その拍子に、猟銃を取り落としたらしい。少女が手を伸ばそうともがくが、それは、遥か下の地面に情けなく突き刺さった。
「な、なんてことすんのよ! この、人でなし!」
「……確かに、人ではない、ですね。はは……」
視界の端に、見慣れた少年の姿が映る。白い息を吐き出し、一心不乱にこちらへ走り寄ってくる。待ち望んでいた彼の顔が、涙で滲んで、零れ落ちた。
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