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雨音の家 30

それから一週間、東城はリフォームの会社と連絡をとり、カタログをみながら電卓をたたいて何やら計算していた。広瀬は住居への細かい希望は特になく、ただ、庭に下りることができる縁側だけ残して欲しいと告げていた。 東城は、自分の予算とこだわりを天秤にかけながら、リフォーム会社と交渉をしていた。決断は早く、すぐに工事が入ると教えられた。アパートを引き払う準備も早めにしておくようにと東城から告げられていた。 東城の家にいりびたっているせいで、最近、生活費がかからなかった。ある程度の貯金もある。リフォーム代の一部をもつ、と告げたがそれは断られた。大家になるから、家賃もらえればそれでいい、と冗談めかしていわれた。 何日かして夜に改まった声で東城に呼ばれた。 「これ、契約書」と東城は言って書類を差し出した。賃貸契約になっている。不動産屋の名前も書かれていた。 「市朋会の懇意にしている不動産屋を、俺とお前の間にかませることにした。その方が、お前が引っ越しても変に大井戸署に勘繰られないからな」と東城は言った。「ここにサインして印鑑も押しといて」と彼は言った。 広瀬は、書類を受け取った。 それから、東城は、別の束になった書類を見せてきた。 不動産や銀行口座、有価証券など財産に関するものだ。見てもよくわからないので、ペラペラと紙だけめくっていた。 「引っ越す前に公証役場に行くつもりなんだ。伝えてなかったから言うけど、こんど引っ越す場所は、俺のものではあるけど市朋会が本館使ってるだろ。離れのあの家、俺に何かあったら俺の家族だけじゃなくて、親戚やら市朋会の事務方やらがでてきて、ややこしいことになるかもしれない。かもっていうか、かなりの高確率でそうなる」 「何かあったらって、何ですか?」 「俺が、事故か事件に巻き込まれて死ぬ」 「そうしたら、すぐに引っ越しますよ」あの家にどうしても住みたいわけじゃないのだから。東城がいないのなら、また、どこかにアパートを探して住めばいいだけだ。 「そうだろうけど、すぐにはいいところ見つからないかもしれないし、また、あのボロアパートみたいなところに住まなくてもいいだろう」 広瀬はむっとした。ボロアパート、って失礼だろうに。 「有価証券は市朋会関係じゃなければややこしいことはない。現金には名前かいてないからこれも問題ない。それと、市朋会に無関係の不動産がいくつかある」 「何の話ですか?」 「お前に残せるように公正証書遺言証作るから」 広瀬は頭を横に振った。 「なんで?」 「そんな大層なものもらえません」 「どうして?俺のものを俺が愛している人間に残すだけだろ。いっぱい税金でとられちゃうけど、お前、公務員だから、回りまわってお前の給料になると思えばそれもいいし」 東城は書類をそろえてファイルにしまった。 「そのときになってお前がいらないと思えば放棄すればいいんだよ。ただ、こういうものがあるってことを覚えておいて欲しいだけだから。金はどんなにあっても困るもんじゃない。それに、なんかあっても俺はお前にこれ以外は残せないから」 何かがあるなんて考えたことがなかった。もし、そんなことになったら。 「心配しなくてもいい。すぐに死ぬ気はないから」と東城は穏やかな声で言った。「遺言みたいなものは万が一っていうほんのわずかなリスクにそなえているだけなんだ」 「心配はしてません」と答えた。ただ、わずかなリスクでも聞きたくないだけだ。「東城さんが不審死したら、まっさきに俺が疑われますね」冗談にしてしまいたかった。 東城も笑った。「動機があるからな」 早くに両親を亡くした自分が愛するものを失うことをどれほど怖れているか、東城にはわからないだろう。

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