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雨音の家 34
次の日、朝起きると、ジョギングから戻っていた東城がシャワーからでてキッチンで水を飲んでいた。
彼は、広瀬の知らない歌をくちずさんでいた。青春の終わりを歌う昭和っぽい歌だ。
広瀬が怪訝そうな顔でもしたのだろう。聞きもしない説明をしてくれる。「母親が好きな歌手の歌で、よく自分でも歌ってたから」ふとした瞬間に彼の口からもでてくるのだろう。
そう説明した口で、軽く広瀬にキスをしてきた。「おはよう。よく眠れたか?」
広瀬はうなずいた。
冷蔵庫にむかって歩くと、後ろから彼がついてきて、何度か頭に唇をおとしてきた。その間にも、ジョギングした近所の様子や嵐の後の庭のことなど話していた。
広瀬は新品の冷蔵庫の扉をあけた。中は空っぽだった。当然だ。夕べは急いで帰ってきたので、何も買っていないのを思い出した。
「水ならあるけど、飲むか?水道水だけど」と冗談めかして東城が言った。「その辺走ったんだが、コンビニは近くにないんだ。前より不便になった」
「そうですか」食料の備蓄は必要だった。おなかがすきやすい広瀬は、下手すると飢え死にしてしまう。
「明後日には石田さんがきてくれるから、また、作っておいてもらおう」
ここに引っ越すにあたって何点か懸念事項はあったが、家事全般をどうするのかは最大の懸案だった。石田さんは岩居の叔母のためにマンションにきてくれていたので、まさか、こちらの家にまできてほしいとは頼みづらかった。だが、石田さんに、もしよければお手伝いに行きますといってもらえたのだ。岩居の叔母のマンションは東城がでていったら人に貸すことになっており、石田さんは時間があくからといっていた。
東城の家で片付けやお料理をするのは、遊びみたいなものだから、と言ってくれた。費用のことは東城と石田さんでとりきめたようだった。
水ばかり飲んでいるわけにはいかないので、広瀬は、早めにしたくをして出た。途中で適当な店を探して朝ごはんを食べるのだ。
本館に行く方ではない裏道を通ると小さな門があった。鍵が壊れている。これは直した方がいいだろう。
門を出てしばらく行くとそこは低層の住宅街で知らない街並みだ。
ふと、我ながら思い切ったことをしたものだ、と広瀬は思った。彼に誘われるままに、こんなところまで来てしまった。振り返ると自分と東城の家が緑の中でわずかに屋根をみせていた。
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