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春の酔い 1

岩下教授が国内に戻ったとの連絡が大井戸署に本人からあった。広瀬は宮田とともに彼の自宅に会いに行った。 ドアフォンを鳴らすと、白髪の男性が出てきた。既に把握している写真の顔よりもややふけているが、中肉中背のさほど特徴のない男性だった。 宮田が身分証を見せて名乗った。 「どうぞ」と岩下教授は玄関口で小さな声で言った。 通された居間は雑然としていて、空気がこもっておりかすかに黴臭かった。 長い時間旅行に行っていたためだろうか、それとも妻が亡くなって空気を入れ替える人がいなくなったためだろうか。 学者の家らしく、廊下にも居間にも本や学会誌が積みあがっている。 訪問する前、岩下教授が20年前の実験に関係しているとしたら、自分のことに気づくだろうか、と広瀬は懸念していた。だが、広瀬の顔を見ても、身分証を示し名前を名乗っても、岩下教授は無反応だった。自分を覚えているとは考えにくい態度だ。 居間のソファーを勧められ、二人は腰かけた。岩下教授も座る。 「どんな御用ですか?」と彼は聞いた。 「岩下先生の研究室におられた、倉元さんと金井さんが亡くなったのはご存知でしたでしょうか?」と宮田は尋ねた。 岩下教授は、うなずいた。「ああ、それは知っています。倉元君のご葬儀には私も行きました。残念なことです。二人とも優秀な研究者で、別な研究室でそれぞれ成果をあげているときいていたから、まさか、死を選ぶとは。金井君の葬儀には残念ながらいけなかった。親御さんもさぞお嘆きのことだろうと思いますよ」と彼は言った。 声は小さいが、口調は静かで落ち着いていた。 「私も子供を亡くしているのでわかるが、自分の子供が自分より先に死ぬというのは、親としては、耐えがたいことだ」 「倉元さんや金井さんとは連絡はとっておられたのでしょうか?例えば、最後に会われたのはいつですか?」 岩下教授は、首をかしげる。「いつだったかな。1年以上前ですよ。金井君は、島根に帰ってしまったから、もっと会っていない。ああ、一度、会ったかな。同窓会のようなところに私も呼ばれたんだ。あそこに二人はいたと思う」 「それ以降は、電話で話したり、メールでのやりとりはないですか」 「メールはあったかな。教え子から研究に関する相談はよく受けるんでね。調べてみましょう」と彼は言った。そして、ゆっくりと立ち上がり、居間を出て行った。 しばらくして、ノートパソコンをもって戻ってくる。そして、開いて見せてくれた。 「どうだろうね」とメールをチェックしていく。確かに、何人かが問い合わせや相談のメールをしてきていた。岩下教授もそれに丁寧に答えている。

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