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春の酔い 2

しかし、倉元や金井からのメールはなかった。 「ないようだな」と岩下教授は言った。「でも、なんで、こんなことを警察の人が聞きに来るんだね?二人とも自殺だったのではないのかね?」 宮田は、意を決したように言った。「実は、お二人の研究者は、人体に影響のある実験に参加していたのではないかという疑いがあります。岩下先生は、実験に心当たりはありませんか?」 岩下教授は、ノートパソコンを閉じて、宮田に視線を移した。「実験?研究室の実験のことですか?」 「はい」 「研究室だから、実験は数多くやっていたが、それが理由で自殺するということはないと思うが」と岩下教授はとまどった口調で言った。 「それが、人体を対象とした実験が行われていたという話がありまして」 「人体実験?」と岩下教授は言った。「私の研究室でですか?」寝耳に水という感じだ。演技だとすると相当な名優だろう。「なんだろう。私の研究室では、記憶について研究していました。だから、ちょっとしたテストみたいなものはよくやっていましたよ。まさか、それのことですか?」 宮田は、わずかに前のめりになる。「テストとはどんなことですか?人体に影響があるものですか?」 「影響ねえ。カードに書かれていることを何日間覚えられるかとか、記憶にいいとされる食品が本当にいいかどうか検証するとか、実験やテストとはいっても、半分学生同士の遊びのようなものでしたよDHAや亜鉛の入ったドリンクやサプリメントを飲んだり、チョコレートを大量に食べて、記憶してみたりといったものです。それが原因で自殺するということは、考えられない」と岩下教授は答えた。 「それだけですか?」 「脳波をとったりはします。頭に測定器をつけて。しかし、これらは大学に届け出ていますし、測定器をつけたから自殺したというような因果関係はないですよ。それなら、私も私の同僚もとっくに自殺しているでしょう」 宮田は、写真を取り出して、岩下教授に示した。 「なんですか?」岩下教授は、突然示された写真に驚き、テーブルの脇の老眼鏡をとってかける。しげしげと見た後で、「これは?」と宮田に聞いた。 「金井さんの奥歯からみつかったものの写真です。歯科医師に確認したところ歯の治療用ではなく、何かの実験器具ではないかということです。こういったものを奥歯に入れるような実験はされていませんでしたか?」 岩下教授は、もう一度その写真を見た。「金属のようですね」と彼はいった。「奥歯にあったのですか」 「はい」 岩下教授は首をひねった。「奥歯につけてどうするんですか?」 「実験器具だったのではないかということ以外お話はできません」 「実験器具ですか」と岩下教授は言った。「奥歯にねえ。見たことも聞いたこともないですが、もし、本当に実験なのだとしたら、誰が何の目的で実験していたんですか?」 「それを岩下先生伺うために来たのです」と宮田は言った。 岩下教授は写真から顔をあげた。「私が?いや、まさか。私の研究とは全く関係ないものだ。しかし、もし、こういったものを実験に使っているのだとしたら、ぜひ、その目的や成果を知りたい。まだ、未発表のものでしょうな。学会誌でも見たことがない」と彼は言った。 「では、この器具には全く心当たりがないのでしょうか?」 「はい。全く。ゼロです」と彼は返事をした。 「もし、推定できるとしたら、こういう実験をしそうな研究者はいますか?例えば、金井さんの研究室の先生とか」 岩下教授は困惑気味にその写真をみた。「こういうものを、人の身体に入れて、実験してしまおうという人は、おそらく、日本の研究機関にはいないんじゃないですか」と彼は言った。「この写真はお借りできますか?もしできれば、他の学者仲間にも聞いてみますが」 宮田はその提案は丁寧に断り、写真を戻してもらった。その後はどう押しても引いても岩下教授から有効な回答は得られなった。宮田は礼を言いながら立ち上がった。 「ありがとうございます。もし、なにか、倉元さんや金井さんのことで思い出されることがありましたらご連絡ください。他のことでも結構です」 岩下教授は玄関の外まで二人を見送った。

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