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春の酔い 19

しばらく屋根からの眺めを楽しんで飲みながら、ふと思い出し、「『鬼の子』のことなんですけど」と広瀬は言った。 「え?」東城はこちらを見る。「ああ、あれ?気にしなくていいぞ。酔っ払いの言葉なんて意味ない時が多いからな」 「それが、思い出したことがあります」と広瀬は言った。 「小学校のころ、親戚に誘われて、どこかのキャンプ場に行ったんです。泊まりがけで行って。山や川があって。俺、うろうろしている間に、迷子になったんです」 東城はうなずく。 「川にきれいな大きい魚が泳いでいて、それを追いかけていたら、いつの間にか知らない場所になってて、みんなからははぐれてしまっていて。戻ろうって思っていたら、迷子になっていました。困ってたら林の中から、子どもが出てきたんです」 子どもは、もじゃもじゃの髪をしていて日にやけて真っ黒だった。手足は乾いた砂がついて白くなっていた。丸顔で笑顔にえくぼがあった。 「ここで何してるの?」と聞かれた。「一人?」 幼い迷子の広瀬はうなずいた。 「誰かと一緒じゃないの?」 「オジサンたちと来てる」 「ああ。そいうこと」とその子は言った。「一人でいていいの?」 広瀬は、黙っていた。いいことはないが、道がわからず帰れないのだ。 「下のキャンプ場からきたのかなあ」と子どもは言っている。「もしかして、迷子?」 広瀬は下唇を噛んだ。泣いちゃだめだと思うけど、はっきり言われると悲しくなってくる。 「泣くなよ。可愛い顔してるけど男だろ。男は迷子になったくらいで泣かないんだよ」と子どもは言った。 子どもはどこからともなく、大きなバナナを一本取り出した。 「ほら、これ、食べろよ」 皮をむいてくれる。広瀬は、バナナを食べた。甘くておいしかったので少しだけ元気になった。 しばらくして子どもが言った。「キャンプ場まで送ってやるよ」 ついて来いと言って子どもは林の中に入っていった。そこは暗くてカサカサゴソゴソという鳥や動物、虫の音がする。怖くなって子どもの後ろにぴったりついた。子どもは手を差し出すと、ぎゅっと広瀬の手を握ってくれた。 「こっちから行く方が近道だから」 どんどん進んでいくと、林の向こうが明るくなっていた。見ると、川が流れ向こう側にキャンプ場が見える。 大人や子供が大勢いて、バーベキューの準備や川遊びをしている。 「あっちにいる大人に、迷子になったって言えば、保護者を探してくれるよ」と子どもは言った。 「一緒にきてくれないの?」と広瀬は聞いた。 「俺はあっちには行けないんだ」 「どうして?」 子どもは笑った。歯が白い。 「俺は、この森に住んでる鬼の子なんだ。あっちに行ったら、大人に捕まっちゃう」 そういいながら彼はもじゃもじゃの髪をかき分けて額をみせた。そこには小さな角がついていた。広瀬は、目を丸くした。鬼の子って本当にいたんだ。 「今日、帰っちゃうの?」と子どもは聞いてくる。 広瀬はわからないと言った。 「じゃあ、俺、明日、朝、この辺にいるから、明日までいたら、遊ぼう。明日きたら、川で魚とってやるよ」 そういうと、広瀬が向こうに行くように促した。 何度も振り返りながら、広瀬はキャンプ場に戻った。 最後に振り返ったときには鬼の子はいなくなっていた。

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