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春の酔い 22

春の夜の夢のような暖かい空気のなかで、ぼんやりとしたランプの灯りに照らされる東城の横顔を見ながら、広瀬はふと、もう一つの鬼の子の話を思い出した。 だが、大した意味もないので、東城には話さなかった。 子どものころ、大好きな童話があったのだ。母親にせがんで毎晩繰り返し読んでもらっていた。 食いしん坊の幼稚園児の主人公が、果物食べ放題の山の中で迷子か何かになって『鬼の子』に助けられるのだ。彼に一緒に鬼になってここで暮らそう、と誘われるが、それは断って主人公は元の家に帰る。 幼い広瀬は納得できずいつも母親に聞いていた。「ねえ、どうして一緒に鬼の子と暮らさないの?果物だっていくらでも食べられるし、どうして?」 当時からそのお話の主人公と同じく食いしん坊だった広瀬には、果物が食べ放題のその山は魅力的だった。鬼の子と暮らす方が窮屈な幼稚園生活より自由で楽しそうだった。 「ねえ、どうして?」 そう尋ねる広瀬に母親はいつも困った顔をしていた。「彰也はまだ小さいからわからないのよ」と彼女は言っていた。「おうちやお友達のところに帰りたかったのよ」 「どうしてかなあ」と幼い広瀬は母親に言った。「僕なら、鬼の子と一緒にくらすなあ」 毎晩読んでもらってお話に出てくるバナナやみかんがおいしそうだと思いながら、いつも同じように母親に言っていた。 「僕なら鬼の子と一緒に暮らすよ」

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