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春の酔い 23

喫茶店の古い椅子に座り、忍沼拓実は、また、アイスミルクを飲んでいた。 そこは銀座のビルの3階にある老舗の喫茶店だ。スペースをゆったり使っているので、よほど大声を出さない限り、他の客に会話を聞かれることはない。広瀬が指定した店だ。 今回、東城には忍沼と会うことを伝えなかった。言ったらついてくるというだろうし、もし、彼を連れて来たら忍沼は話をしないことは広瀬にもわかる。 警戒しながらも結局、広瀬は、実験についての資料を持っていることや父親や警察がどのように実験に関わっていたのかを教えるという彼の誘惑にあらがえなかったのだ。 自分の父親はどうしてそんな実験に自分を参加させたりしたのか、知りたかったのだ。両親の死と実験には、関係があるのだろうだろうか。もしかすると、殺人犯への手がかりがつかめるかもしれない。わずかな細い線でも、広瀬は欲しかった。 それに、忍沼の話では、岩下教授はその実験に関係していたようなのだ。今回の、自殺案件の捜査に、忍沼の情報は役立つかもしれない。 自分は、忍沼拓実を利用するのだ、と言い聞かせた。嘘かもしれないことを念頭におき、彼に好きなように語らせることで、自分が欲しい情報を手に入れるのだ。だから、忍沼に会うのだと、広瀬は自分を納得させた。 広瀬は、忍沼の正面に座り、コーヒーを飲んだ。忍沼は、今日は着古したカットソーにパーカー、ぶかぶかのチノパンといういで立ちだった。大事そうに抱えていたカバンを足の間で守るように置いている。 忍沼は、薄いファイルをカバンから引っ張り出した。「これは資料の一部だよ」と彼は言った。 それは、論文だった。文字がずらずらと並び、広瀬には分らない化学式や計算式がかかれている。 「この論文は実験の開始前にかかれたものだ。だけど、彼らの実験の目的がよくわかる。そもそも長期記憶能力の向上を狙う研究なんだ。長期記憶ってわかる?」と忍沼は聞いてきたが、 広瀬からの回答は待たずに説明をした。 「難しい話じゃないんだけどね、記憶には短期記憶と長期記憶があるんだ。短期記憶が覚えているのは30秒くらい。この記憶の中から覚えているべき記憶とそうでない記憶がわけられて、覚えているべき記憶だけが、長期記憶になる。この覚えているべき記憶の量を増やそうっていうのが、実験の目的だ。さらに、長期記憶から、記憶を取り出しやすくしようともしている。要するに忘れにくい、なんでもすぐに思い出せる脳を人工的につくりだそうという実験だ」忍沼は資料を見せながら広瀬にそう説明した。「目的は悪くないものだ。だけど手段が間違っていたんだ」 「忍沼さん」と広瀬は言った。 「拓実でいいよ」と忍沼は答えた。「あのころは、君は僕のこと『たっくん』って呼んでたんだよ。研究室では、誰がどう話しかけても君は絶対に口をきかなかった。表情もなくて、まばたきだってしないくらいだった。でも、僕にだけ、話をしてくれてたんだ」彼は微笑んだ。 その話には答えずに「その研究を主導していたのが、岩下教授だったのですか?」と広瀬は聞いた。 「いや。20年以上前だからね。岩下教授は、まだ、研究のメンバーに過ぎなかったよ。主導していたのは、滝教授だ」忍沼は、禍々しい言葉のようにその名前を口にした。 「その、滝教授は、今はどうされているのですか?」 「かなり高齢だけど、千葉に施設を作って、そこで研究を続けている。しかも、国や企業から研究費をもらっているらしい。20年前、実験は失敗に終わったんだ。子どもは事故死するし、反対者もでてね。それで、その直後に滝教授は大学を辞めて、自分の研究所を作ったんだ」 「実験と言うのは、具体的にはどんなものだったんですか?」 忍沼は、もう一つのファイルを出してくる。

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