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胸の痛み。

「他に何か言われたことは?」 「僕が工場跡地のような場所に連れて行かれる直前――。グレディオラス様のお屋敷で僕の名前を尋ねられました。それだけです」 「……そうか」  そこまで尋ね終えると、彼は何かを考えるようにして押し黙った。  書斎に沈黙が生まれる。  かち、こちと時計の秒針が音を立て、静かな空間を埋めた。  そこでセシルが思い出したのは、例の男たちに連れ去られた当時、カールトン卿が言っていた、『彼女の仕業』という言葉だった。  そしてその場にいたガストンも相づちを打ち、肯定していた。  果たして、『彼女』とは誰のことを示すのだろうか。  もしかすると過去、カールトン卿が交際していた女性ということも有り得る。  その女性はセシルを邪魔だと思い、人攫いを雇ったのだとしたら――すべて納得できる。なにせ彼はこんなにもハンサムだ。女性との関係がないことの方が可笑しい。  果たしてその女性とカールトン卿とはどういった関係だったのだろうか。  ――過去の恋人。  ――将来を誓いあった仲。  そして今でも彼女との関係はあるのだろうか。  尋ねたい気持ちは山ほどある。けれども今は尋ねることができない。  もし、カールトン卿がまだその女性に未練があったならば――。  そしてまた深い絆を取り戻し、家庭を築いてしまったらならば――。  そう考えると、胸が押し潰されそうに痛み出す。  カールトン卿のこの真剣な面持ちはいったい何を考えてのことだろう。  こんなに近くにいるのに、彼の真意が掴めず、不安になる。 「あの、ヴィンセント?」  セシルは居ても立ってもいられなくて、沈黙を守ったままのカールトン卿に声を掛けた。

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