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誘惑。

「もどしなさい。少しは楽になる」  熱にうなされる中、それでも彼のジュストコールを汚してはいけないと、セシルは頑なに首を振る。  けれども男性の手がセシルの背中を労るように優しく撫で、もどすよう促してくる。  そしてとうとう、セシルは男性の誘惑に負けてしまった。胃から込み上げてきたものを吐き出してしまう。  男性が言ったように、いくらかおう吐したおかげで少しばかり気分は楽になった。しかしその次にやってきたのは罪悪感だ。  今の自分では到底手が出せないほどの上等なジュストコールを汚してしまった。  幸いだったのは、ずっと気分が悪かったおかげで今朝から胃の中に何も入れていなかったことだ。  酸っぱい胃液が口から出るばかりで、他は何ももどすものはない。  それでも彼のジュストコールにべったりと付着している液体は自分の体内から出たものに違いない。ただでさえ汚物のそれは、穢らわしい自分から出たものだから汚さは倍増だ。 「ごめ、なさ……ごめ、なさ……」  セシルは涙を流しながら何度も謝り続ける。 「君が気に病むことは何もないよ」  けれども男性は自分のジュストコールを汚されたことでセシルを怒鳴りつけることはなかった。  彼は紳士だ。そして優しい。  ベルベットのような優しい低声が、罪悪感に捕らわれたセシルを宥める。汚れた自分の衣服をそっちのけで、懐から取り出したハンカチをセシルの口元に当てて拭ってくれる。  そしてもう片方の彼の手は、罪悪感ですっかり丸まったセシルの背中を撫で続けていた。

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