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ごきげんよう。
何事かと振り向けば、そこにはカールトン卿の美しい顔がすぐそこにあった。彼は何を思ったのかセシルを引っ張り上げ、自らの膝の上に乗せたではないか。
セシルは彼の腕の中から離れようと動くものの、けれども彼はセシルを離そうとはしない。それどころか、力強い腕がセシルの腰に巻きついてくる始末だ。
「あの、カ――ヴィンセント?」
セシルが彼の名を途中で言い変えたのは、一昨日に続いて昨夜も名前で呼んでほしいと言われたからだ。
……本当は、カールトン卿の名前で呼ぶのは気が引ける。だって自分と彼とではあまりにも身分が違いすぎるからーー。
いや、それだけではない。彼の名を口にするとどうもくすぐったい気持ちにさせられるのだ。だからセシルはわざと彼のことを、『カールトン卿』と呼ぶようにしていたのだが……。
彼の名を呼ぶたびに訂正されて結局は言わざるを得ない。セシルは観念して彼を、『ヴィンセント』と呼ぶことにした。
(えっと……えっと……)
いったい自分はどうなってしまうのだろうか。
自分を包み込む力強い腕の感触。
分厚い胸板。
頬を掠める彼の甘い吐息……。
背後にいるカールトン卿を意識するだけでこんなにもセシルの心が入り乱れてしまう。
ああ、どうしよう。心臓が早鐘を打っている。
身体は火照るし呼吸も浅くなる。
カールトン卿をできるかぎり意識から取り除きたいと思ったセシルは、ふと壁に掛けられている時計を見た。
時刻は午後七時になる少し前だ。
(――あっ!)
その瞬間、セシルの息が止まった。
毎夜、夕食は彼女と一緒に作る。それはイブリンとセシルが交わした約束だ。ところが今の時刻は午後七時五十五分。夕方というにはあまりに遅い時間帯だ。
しまったと思った時にはもう遅い。
罪悪感がセシルを襲う。
「あの、イブリン、ごめんなさい。今日も夕食を一緒に作るって約束していたのに……」
彼女と交わした約束を堂々と破り、今の今まで寝汚く眠りこけていたなんて。
――しかも寝坊した理由が、自らに溜まった欲望を吐き出す行為で疲れきって、という淫らなものだ。
「……ごめんなさい」
(――ああ、僕はなんて穢らわしいのだろう。)
セシルは卑しくて嘆かわしい自分を責めた。
「ああ、いいのよセシル。気にしないで。わたしは誰かのために食事を作ることがとても好きなの。それに、貴方とはこれからいつだってできるんですから」
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