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凪ぎし歩み

「キミ、今一人?」 書店にて、立ち読みしながら時間を潰していると、不意に声を掛けられる。 はっきりと聞こえてはいたが、絶対に自分ではないだろうと思い込み、黙々と文字を追っては頁を捲っていた。 しかし、傍らから気配がして、待てど暮らせど今しがたの問いに答える声もなく、視線を下ろしたままようやく疑問符を浮かべる。 もしかして俺か、と胸中で呟き、ゆっくりと顔を上げながら隣を窺えば、晴れやかな笑顔がすぐにも視界へと飛び込んできた。 「やっぱり、思っていた通りの美人さんだ」 なんて声を掛けられ、両の手で雑誌を持ちつつ、傍らにて立つ男を見上げる。 黒髪で上背があり、端正な顔立ちには甘やかな笑みを湛え、他人とは思えないような安らいだ雰囲気を纏い、何処と無く見覚えがあるどころか数時間前に顔を合わせたばかりで、共に出掛ける約束をしていた事は未だ記憶に新しい。 「……何やってんだ、お前」 暫く見つめ、顔色一つ変えずに紡げば、目前の人物は一層笑みを深めている。 「う~ん、ナンパかな。どう? これから俺とデートでも」 にこやかに手を差し伸べられ、盛大に溜め息をつきながら視線を逸らし、読み掛けの記事を再び追う。 「アレ? もしかして予定があるとか。そうか~、どんな人が来るのかなあ。俺みたいにかっこいい人かなあ」 「ハァ……、早かったな」 「ああ、思っていたよりも早く着けた。咲は……、いつから此処に居たんだ? 待ち合わせにはまだ大分時間があるけど」 腕時計を見ながら述べられ、読んでいた本を閉じて棚へ戻すと、さっさと背を向けて一歩を踏み出す。 「別に。それはそうと、なんで此処が分かった」 「いや、たまたまだ。俺も時間を潰そうと思ってさ。本屋に入ったら見覚えのある後ろ姿を見掛けて、近付いたら熱心に料理本を眺めてるじゃないか。新しいレシピは見つかったかな? 披露してくれる日が待ち遠しいなあ」 「うるせえな……」 駅前にて落ち合う予定であったが、約束の時間よりも大分早くに着いてしまい、構内の書店で彼を待ちながら暫しを過ごしていた。 何でも良かったのだけれど、気が付けば吸い寄せられるように先程の場所に居り、熱心にレシピを眺めているところにまさか現れるとは思わず、今更になってばつが悪い。 「用事は済んだのか?」 「ああ、お陰さまで。これで心置きなく咲とのデートを楽しめる」 「いっぺん頭打ってきたほうがいいんじゃねえか? そのへんの壁に」 目についた壁を指し示しつつ、何とはなしに秀一を見つめれば、相変わらず彼は穏やかに笑んでいる。 前々から約束をしていて、本来であれば自宅から一緒に出掛けるつもりであったのだが、直前になって秀一に急用が出来てしまった。 日を改めればいい、出掛けるくらいいつでも出来る、と提案するも首を振られ、結果として外で待ち合わせる事になっていた。 毎日顔を合わせているし、予定を狂わされたところで文句を言うつもりもなかったけれど、それでもやはり残念ではあったので、平静を装ってはいても行動に全てが表れている。 「たまにはこうして外で会うのもいいな。なんか……、デートって感じがする。これからそうしようか!」 「同じ家にいんのにわざわざ別々に出て外で会うのか? めんどくせえな、却下だ。後お前はデートって言いたいだけだな」 「ははは、バレたか。久しぶりに二人きりで出掛けられるのが嬉しくて」 素直に吐露され、笑い掛けられて言葉に詰まり、ゆっくりと視線を逸らす。 気を緩めれば頬が引きつりそうで、俯いて何とか堪えるも、共に居られて嬉しいのは秀一だけではない。 颯太や瑛介、桐也を交えて営む家庭は楽しく、何ものにも変えられない幸せに満ち満ちているけれど、こうして二人きりで居られる時間も大切なひと時であり、正直にはなれないが本当はとても充足している。 「で、何処で何するんだよ。何も考えてねえからな」 「う~ん、まずは腹ごしらえだな。まだ昼食べてないだろ?」 「ああ……、そうだな。あ、だったら、行きたいところがある」 「ああ、この前話してたところか? 気になるって言ってたもんな」 「ああ、いや……、でも、混んでるか……?」 「大丈夫じゃないか? 一段落はついてる頃だろう。それに、混んでても待てばいいよ。そこにしよう。俺も食べてみたいからさ」 幾人もとすれ違いながら、和やかな涼風を受けつつ歩を進め、傍らで微笑む秀一にじわりと胸が熱くなる。 何度も、何度も、数え切れないくらいその笑顔に救われてきた。 少しでも、ほんの僅かでもこの手で、この身で、幸せであるということを伝えられているだろうか。 「なら、いい……。そこにするからな」 「うん、もちろん。何屋さんだったかな?」 「パスタ」 「あ~、いいな。アレ……、もしかしてピザもある?」 「あったな」 「よし……、色々頼んで分け合いっこしよう」 「食べきれる分にしろよ。……まったく、子供かよ」 思わず微笑むと、秀一も視線を注ぎながら笑みを深め、最初の目的地へと向かうべく歩いていく。 一人で歩むことが当たり前であったのに、いつから肩を並べる安らぎに目覚めていたのだろう。 傷付いた夜も、羨んだ明日も、一つ一つ全てが欠けることなく息づいている。 どれだけ時が経とうとも、今この瞬間と変わりなく心が凪ぐことであろう。 「食べたら何をしようか」 「さあな。手慣れたナンパしてるくらいだから、沢山いい店知ってんだろ?」 「え!? いやいやいや、そんな……、何言ってるんだ……。咲だけだ。誤解だ……、俺が心に決めた人はただ一人……」 「にしては狼狽えてるな。別にいいけどな? お前が外で何してようが」 「ほ……、本当にそう思ってる……?」 「……」 「え……」 「思うわけねえだろバーカ。裏切ってみろ。ただじゃ済まねえからな」 「えっと……、肝に銘じておきます」 「よろしい」 【END】

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