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Cherry blossom

「綺麗だな……」 佇みながら、自然と唇から滑り落ちていく。 澄み渡る空の下、温和な日射しに包まれながら、心地好い涼風が通り過ぎる。 雲が流れ、安らかな囀りが聞こえ、花びらが舞う。 慈しみに溢れ、あまりにも目映い光景にて立ち止まり、暫しの時を忘れる。 控え目に、けれども存在感に富む薄紅色が、目前にてしとやかなる美しき花弁を揺らめかせている。 見頃を迎えた桜が優雅に咲き誇り、一本道を鮮やかに彩りながら時を重ね、訪れる者の心までもを捕らえて離そうとしない。 ずっと眺めていたい、そう思えてしまう程に引き込まれ、幻想のような華々しき景色が広がっている。 「綺麗だな」 視線の先から、なぞるように言葉を繰り返し、穏やかな声に鼓膜を擽られる。 薄紅色と共に、幾分か先では一人の男が足を止めており、風に撫でられて黒髪がささやかに揺れている。 程無くして振り返り、穏やかな双眸へと映り込みながら、木々のざわめきと共に春風が通り抜けていく。 優しげな、それでいて心底、うつくしみに溢れた人物が佇んでいる。 もう何度、その手に、声に、想いに救い上げられてきたか分からず、いつしか何ものにも代え難い存在になってしまっていた。 微笑まれる度に、例えどのような苦境へと立たされていたとしても、大丈夫なのだと安心してしまう。 釣られて笑みそうになるけれど、恥じらいが邪魔をして視線を逸らし、いつも早々に逃れてはなかなか真っ向から見つめる事が出来ないでいる。 「丁度いい時に来たなあ。満開だ。綺麗に色付いてる」 言いながら見上げ、瞳を閉じながら暫しの時を佇み、和やかで尊き世界を存分に楽しんでいる。 差し出された手に、ゆらりと散り行く花びらが辿り着き、彼は目を細めていとおしそうに笑う。 麗らかな日和にて過ごし、微笑む姿をただじっと眺めているだけで幸せだなんて、馬鹿らしいと思えても今更手離せはしないのだ。 離れた先で立ち、あの頃はそれ以上に築いていた距離が、気が付けばすっかり失われてしまった。 何の気なしに踏み出して、難なく傍らへと立てる程に、悔しいけれども心を蕩かされている。 「どうしても一緒に見たかったから、今日は来られて良かったよ。なかなかいい所だろ? 近所の割には見応えもあって」 「ああ。綺麗だな……」 「咲の方こそ綺麗だよ。例え満開の桜でも太刀打ち出来ないくらいに」 「……ハァ。頭が痛くなってきた……」 「やっぱり名は体を表すんだなあ。咲には本当に可憐な花がよく似合う!」 「よく聞こえなかったからもういっぺん言ってみろ。俺が、何だって……? 返答によっては分かってんだろうな……」 「あ……、いや、その、な、なんだったかなあ……。忘れちゃったなあ……」 あからさまに視線を逸らす秀一に溜め息を漏らしつつ、相変わらず恥ずかしい奴だと思いながらも、実際には照れているだけで怒りなんて湧いていない。 不快に感じる必要もない、けれども真っ向から愛情を注がれるのは、未だにどうしていいか分からない。 秀一とは対に視線を逸らし、柔らかな風を受けながら足を踏み出し、平静を装う為に心を落ち着かせる。 どちらからともなく足を踏み出し、はらはらと舞い散る花びらに触れられながら、宛てもなく前へと進んでいく。 「たまにはのんびりと散歩もいいもんだな。天気もいいし、暖かくて心が安らぐ」 「まあ……、たまにはいいかもな」 「こうして咲が隣に居てくれるし、俺は幸せだよ」 「お前、また懲りずに……」 「咲……、ありがとう。こんな俺に、ずっと付いていてくれて」 今度こそ殴ってやろうかと思えば、不意に頬へ触れられて顔を向けてしまい、見下ろす双眸と視線がかち合ってしまう。 つい先程までは、冗談めかした空気が漂っていたというのに、いつの間にかまた足が止まってしまっている。 茶化そうという気配も見られず、唐突に真摯な想いを投げ掛けられて大いに動揺し、いとも容易く翻弄されてしまう。 視線を捕らわれ、逃れる事も出来ずに立ち尽くし、頬には最愛の温もりが触れている。 すり、と撫でられるだけで気が緩み、簡単に頬が染まって熱を孕んでいく。 どうしてこんな事くらいで、と思っても打つ手なしであり、視線を泳がせて借りてきた猫のようになる。 やっとのことで視線を逃れても、深みへと填まるようでますます落ち着かず、沈黙に苛まれてどうしていいか焦りを募らせる。 「相変わらず照れ屋さんだな。そういうところも可愛いよ」 「うるせえよ……。お前は、相変わらず馬鹿な事ばっかり言いやがって……」 「咲。顔が真っ赤だぞ」 「お前のせいだろっ。俺は……、悪くない……」 「ははっ、そうだな。俺が咲への想いを抑えきれないせいで、こんなにも恥ずかしがらせてしまったんだよな。ごめんな、一応口先だけでも謝っておく」 「お、お前っ……、いきなり憎たらしいな……。俺は、別にそういうわけじゃなくて……、大体何でお前に恥ずかしいとか」 「そうか。他に俺を納得させられる理由があるなら聞こうか。何をそんなに躊躇っているんだ……? 遠慮せずに言ってごらん」 良いように振り回されて腹立たしいはずなのに、其処へと確かに含まれる愛情が見透かせて、心地好い温もりから離れられない。 いつの間にかまた笑いの絶えない雰囲気が戻っていて、目前では秀一が悪戯な笑みを湛えながらもいとおしそうに見下ろしている。 からかわれて不満だけれど、それでも彼が幸せそうに微笑んでいるほうが大切で、いつからこんなにも流されやすくなってしまったのだと嘆いても、誰もがきっと憂いているようには聞こえないことだろう。 「なかなか素直になれないところも、甘え下手なところも、全てたまらなくいとおしいよ。愛してる。来年もまた、此処へ桜を見に来よう」 真正面から愛を囁かれ、頬は熱を孕んでいくばかりであり、気の利いた台詞一つ紡げそうにない。 ふ、と微笑む秀一の手が前髪へと触れ、さらりと寄せてから額へと口付けをされ、次の瞬間には言葉よりも先に足が出ていた。 「いたっ! ちょ、咲……、いきなり脛はいけないと思うんだ……しかも容赦無い……」 「うるせえよ……、今すぐ土手から転げ落ちろ」 「ま、待て……、話せば分かる。まずは話し合おう。目が据わってるぞ、咲」 「話なんか必要ねえな。四の五の言ってねえでさっさとしろよ。汚れても心配いらねえぞ。ほら、すぐそこに川があるからな。水浴びもしたいだろ……? 遠慮せずにゆっくりしていけよ」 「水浴びも、転げ落ちるのも、遠慮したいかな……。おかしいな……、ついさっきまで恥じらっていて可愛かったのに、今では鬼のよう……」 照れ隠しで命を脅かされながら、じりじりと後ずさっていく秀一の腕を引っ掴み、緩やかに形勢が逆転していく。 「そろそろ帰ろうか……、何やら雲行きが怪しくなってきたことだし……。雨が降るかも」 「いい天気だな。て、逃げられると思ってんのか」 「いやいや決して隙を窺って逃げようなんて、うわっ」 「あっ、避けやがったな!」 「いやだってそれ痛い!」 「お前……!」 「さっきまでいい雰囲気だったのにどうしてこうなったんだっ……!」 「なんか文句あんのか……!」 「いえ何にも……!」 その後も懲りずに押し問答が繰り広げられるも、結局のところはどうなったのか誰も知らない。 【END】

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