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「……はあ」 一軒の家を前にして、重苦しい溜息が唇から漏れ出たところだった。 結局は流れに流されて、それでも律儀に此処まで足を運んでしまった。 「……腹括るか」 この家で育ったはずなのに、自分には無関係な誰かが住んでいるように思えてしまう。 それも思い込みなのだろうか、懐かしさが無いと言えば嘘になるけれど、遠い存在と感じてしまうのは確かだった。 「……」 いつしか寄り付かなくなった、我が家だったはずの場所へ。 躊躇いはあるものの確かな足取りで、玄関へと歩んでいく。 誰も居なければ楽だろうけれど、そんなに上手く事が運ぶとは流石に思えなかった。 「……いる」 すんなりと扉が開いた事実に、甘い考えは木っ端微塵に砕け散る。 久し振りに見て感じる雰囲気、見慣れていたはずの家。 リビングから微量にだが漏れ出てくる音、誰かがテレビを見ているらしかった。 來も、親父も居ないらしい玄関の様子に、後は誰が残っているのか考えるまでもなかった。 「……」 母親と最後に言葉を交わしたのは、一体いつの事だろう。 笑い合えていた会話に、いつしか視線すら交わせなくなったのは何故だろう。 避けられ遠ざけて、自分だけが孤独を感じ辛さに押し潰されそうだったあの頃、今となって感じられる事柄は。 「……ただいま」 開かれた先に広がる部屋で、こちらには背を向ける形でソファに腰掛けていた母親の姿が視界に入ってくる。 なんて声を掛けたらいいのか分からず躊躇いはしたけれど、やっと言えた側から後悔するような言葉を放ってしまっていた。 「!? 咲……?」 「……」 バッと振り返り見えたその顔は、どこか疲れが滲んでいるように感じた。 驚きに目を見開いて、相当予想外な出来事だったようだ。 「……元気なの?」 「……ああ」 「そう……」 突然現れた息子に動揺するも掛けられた言葉だったが、視線はすぐに逸らされてしまった。 無理もないし、その反応が当たり前のことだったけれど、何故か少しだけ胸が痛んだ。 痛む理由は、よく分からなかったけれど。 「……來は、どうしてる」 「來……」 間を空けて、気を取り直すように話題を切り替えての反応は、またなんとも言えないものだった。 遠くの誰かへ宛てそっと呟くように、呼んだ名前には覇気がなかった。 「最近じゃもう、殆ど帰って来ないわ。何処で何をしているのか……」 紡がれる言葉には力がなく、もうどうしたらいいのか分からないという感情が窺えるようで、聞いたはいいものの返答に困ってしまった。 しかし本人の態度から感じていた通り、來が家へ帰っていないのはどうやら事実らしい。 「聞いても答えてくれないし、なんだか怖くて。……自分の息子に怖いなんて、可笑しいわね」 「……」 來は一体、今どこで何をやっているのか。 これ以上聞いてみたところで、何も知らないだろう事は明らかだった。 自分の中で会話を終わらせ、この場から去ろうと背を向ける。 「……そんなに、駄目な母親だったかしら」 「……」 廊下へ出ようとした時に聞こえた声に、再び部屋内に視線を向けてしまった。 「あなたも、來も、離れていってしまった。どうして、こうなってしまったのかしら……きっと私が、悪かったのね」 独り言なのか判断しかねる言葉、ずっと繰り返し思ってきたことなのだろう、ありもしない罪の意識に苛まれ苦しむ姿がそこにはあった。 「ごめんね、守ってあげられなくて」 全てはその一言に集約されて、具体的に何がというわけではないのに、ずしりと感じる重みがあった。 悩みに悩み続けて、いつの間にかそんなにまで大きなものとなってしまった。 謝られる筋合いなんてない、自分は何もされていないのだから。 「何も、悪くねえよ」 「え……?」 育て方を間違えたとか色々悔やんだとしても、どう生きていたって避けられない流れだったのだと思う。 ここまで来る事に相当の時間を必要としたけれど、いつまでも逃げていては何の解決にもならない。 ただ今の時点で出来る最大限のことは、暗く沈ませてしまったその気持ちから、少しでも解放させてやること。 俺の口から出たのがそんなに意外だったのか、なんだか間の抜けた声が聞こえてきた。 「咲……!」 「……?」 急に気恥ずかしくなりきびすを返せば呼び止められ、迷いつつも結局は立ち止まってしまう。 「なにか、危ないことに関わってるかもしれない。断言は、出来ないけど……」 「……」 立ち上がった母は向かい合うが、顔を俯かせ遠慮がちに言葉を紡いでいく。 「どれだけ離れていようと、片時も忘れたことはないわ。咲も、來も」 「……」 少しずつ、しっかりとした声になっていく強さは、何処から運ばれたものなのか。 「2人とも大事だから……」 瞳を閉じ発せられる言葉は穏やかで、これでもかという程に気持ちが込められていた。 把握していなかったところで、こんなにも傷を負わせてしまっていた。 「だからお願い。あの子を……、來を助けてあげて……」 「……!」 「私じゃどうすることも、出来ないから……」 顔を上げてしっかりと合わせられた瞳は、そのまま逸らされることなく。 「咲にしか、助けられない」 その一言で、自分が今しなければいけない事の道筋が、しっかりと完成された気がした。

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