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1.ZERO℃ギミック【6】

「ようやく買えたな」 夜も深まり、立ち並ぶ高層ビルの合間を抜いながら、足早に駅へと向かっていく。 ふと仰げば、其処には変わらず星は無く、果て無き空すら感じられないような淀みだけが、ビルの隙間から顔を覗かせていた。 「後は……、タイミングか」 人通りの少ない路地へと入り、上着の物入れにそっと手を忍ばせると、指先に小さな包みが触れる。 それはつい先日から秘密裏に頼んでいたもので、昼間出来上がったという連絡が入り、仕事帰りに先ほど受け取ってきたところであった。 「驚くだろうな……」 中身は、咲へと宛てられた指輪。 以前からずっと、愛しい彼に贈ろうと考えていたものを、今夜ようやく捧げることが出来る。 本当はもっと、早くに渡したいと思っていた。 けれどもそうは出来ず、なかなか踏ん切りがつかないでいたことから、気付けばこんなにも月日を要していた。 「咲……」 渡すことでお前を、一層縛り付けてはしまわないだろうか。 穏やかで優しいお前から、逃れる場所を奪ってはしまわないだろうか。 俺に……、お前を愛する資格があるだろうか。 渦巻く想いは果てず、指輪を贈ることで彼の背に、重圧をかけてはしまわないだろうかと、散々なまでに思い苦しんだ。 けれども俺は、様々な葛藤や罪悪感に苛れようとも、結局はこの身に掻き抱くことを選んでしまう。 子供たちや咲、常時ある暮らしの全てを、今更手放したりなど出来ようはずもない。 都合が良く、甘ったれた精神と分かってはいるのだけれど、ハナから誰にも譲る気など、更々ありはしないのだ。 血に汚れた過去、決して償いきれない罪、それらを永久に背負いながらも、この胸に願わずにはいられない。 いつまでもこの幸せな日々が、続いていきますようにと。 その為ならば、――俺は。 「おっ、今何時だ?」 ふと我に返り、腕時計に視線を落として見れば、更なる夜の深まりを示している。 三人は自室に戻り、颯太あたりはそろそろ眠る頃かもしれない。 そして咲はきっと、今夜も静まり返る居間で一人、健気にも自分の帰りを待っている。 先に休んでいいと何度も言っていたのだけれど、その度に彼は素っ気ない態度をとりながらも、随分と可愛らしい言い訳を紡いでくれていた。 本当に、心から愛しさが込み上げてくるし、帰りを待っていてくれていることを、正直とても嬉しく思う。 「早く……、帰らないとな」 そして揃いの指輪を差し出し、驚く咲の表情をじっくりと眺めることにしよう。 速度を上げ、徐々に迫りつつある駅へと向かい、再び意識を傾けていく。 以前は自家用車で通勤もしていたのだけれど、渋滞にはまると厄介なことや、燃料代が少々上がっている点などを踏まえ、最近では電車を使用する機会が増えていた。 まあ、ラッシュを除けば電車通いもなかなかいいもんだよな。 「失礼。君、ちょっといいかな?」 歩道を進み、先々に点在する信号を見遣りながら、薄暗い路上を歩いていた。 そんな時、何処からともなく掛けられた声を聞き、一瞬ワケも分からず立ち止まってしまう。 次いで居所を探り、道路側へとサッと視線を向けて見れば、すぐにも一台の車が映り込んできた。 「時凍(ときとう)、という男を知らないか?」 光沢を帯びる外装、中ほどまで開かれた後部座席の窓からは、一人の男が此方に顔を向けており、こんな時間にも係わらずサングラスを掛けていた。 「いえ、存じませんが」 一目で堅気ではないと、脳が警鐘を打ち鳴らす。 見れば二台の車が、この者を守るように前後から挟み込み、不気味な静けさを湛えながら停車している。 ――時凍という男を知らないか。 脳で反芻させ、努めて平静さを装いながら微笑み、すぐにもこの場を立ち去ろうとする。 「そうか……」 冷や汗が背筋を伝う、時凍という者の存在を、本当は痛いほどによく、知っているからだ。 何故、其所で待っていたかのように停車していた。 何故、道行く人々の中から自分を選び、声を掛けてきたのか。 何故、今になって――。 「どういうつもりですか……?」 再び歩き出した行く手を阻むように、前後に停車していた車内からは、黒いスーツ姿の男たちが現れる。 どうやら大人しく帰す気など、この男には更々無いらしい。 不自然な態度など、一切とってはいない。 それでもこのような手段に躍り出るということは、何かしらの確信を得ているということ。 「……!!」 そう考えに至ったところで、後方の群れの中から一人、拳を構えて勢い良く突進してくる。 ――下手に行動をとってはいけない! そう分かってはいるものの、隠そうとも暴力の染み着いている身体は、脳が信号を伝達するよりも早くに、標的へと咄嗟に腕を上げる。 「チッ……!」 鞄を盾にし、的にめり込んだ拳を強く払い除けると、目にも止まらぬ速さで顔面を殴り付ける。 そんなつもりはなかった、けれども身体は言うことを聞いてはくれず、更に群がる一人一人を確実に、鬼のように打ち倒していく。 「やめろ……!」 呼び掛けたところで聞き入れられず、迫り来る10人余りの群れを相手に、身体は容赦無く格の違いを見せつける。 一歩退いて屈み込んだ男へと迫り、勢い良く振り上げた足から踵落としを決めようとすれば、咄嗟に相手は両腕を盾に頭を覆う。 けれども頭部は狙わず、冷えた目で相手を見つめながら足を下ろせば、瞬時に脇腹へと痛烈な蹴りをめり込ませる。 「ぐあァッ……!」 鈍い音と共に転がり、地に伏して固まる男を余所に、背後からの拳を振り向いてかわす。 そして拳を頬に叩き入れ、よろめいたところを逃さず腹部へと一撃をめり込ませると、極めつけに顔面を膝蹴りが見舞う。 「クククッ……。強いなあ、君は」 ものの数分で、辺りには黒服の男たちが倒れ込み、苦悶の表情を浮かべながら呻いている。 自身のスーツを手で払い、汚れをとるように二、三叩いてから、投げていた鞄を拾い上げる。 後部座席の窓からは、愉悦の笑みを浮かべた男が語り掛け、称えるようにパチパチと拍手をしている。 それだけで虫酸が全身を駆け巡り、気付けば射殺すような鋭い視線を向け、獰猛な獣のように敵意を剥き出しにしていた。 「そう……、その目だ。その目が俺をいつまでも捕らえ、離そうとしない」 告げながらすっと、サングラスに手を掛ける。 「久しぶりだなあ、時凍。いや……、正しくは芹川秀一、というらしいな」 薄ら笑う表情、切れ長の双眸と視線が交わった瞬間、ビリリと駆け抜けていくかのような衝撃が、脳天を貫いてくる。

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