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「許枝 ……」
目を見開き、鞄を取り落としてしまいそうになりながら、目前で笑う男の名を発する。
二度とこの目には、触れることなどないと思っていた。
いや、そう願っていた。
けれども現に目の前で、許枝が薄笑みを浮かべながら見つめており、これは夢ではないのだと突きつけられる。
「覚えていてもらえて嬉しいよ。十年振りか……? 変わらないな、お前は」
「……お前もな」
冷や汗が滲むのを感じながら、心の動揺を悟られまいと視線を逸らさず、口端を釣り上げて笑う。
十年を経て再び、黒衣の死に神が鎌を振り上げ、地獄へと舞い戻しに来た。
そう、告げている。全神経が身を焦がすようにひしひしと、許枝の意思を告げている。
「まさかお前が、堅気の世界で暮らしていたとはな……。どうりでなかなか、見つけられなかったはずだ」
「……」
「忽然と姿を消したお前を、中には死んだと囁く者もいた。けれども俺には、お前ほどの男がそう易々と命を落とすとは、どうしても思えなかった」
許枝 利樹 、九重 会直系許枝組組長を務めており、現在では数多くの配下を率いている。
本物の暴力と、血濡れた世界に身を投じてきたこの男が、何故今になって目の前へと現れたのか。
歳を重ねても変わらず、鋭利な美貌を湛えている男とは、一時期行動を共にしていたことがある。
最愛の友と別れ、息子たちをこの手で育て上げると決めてから、暫くしてのことだ。
今となっては考えられもしないけれど、子供たちには不自由な思いを一切させたくはなく、また自身からは暴力を拭い去れなかったことから、暫し許枝に盾として雇われていた。
守るべきものを持ちながら、幼い子供を危険に晒すような浅はかな行為を、ずっと繰り返してきた。
俺は……、狂っていた。
どうしようもなく、内なる狂気に取り憑かれていた。
養う為と我が身に言い聞かせながらも、飢えを恐れる拳は混沌を求めて彷徨い、血と、金と、スリルから背を向けることをやめられないでいた。
「クククッ……、時凍成一と名を語り、俺をも欺いていたとはな……? そんな奴など、始めからこの世に存在してなどいなかった」
「許枝……」
「苦労したよ、君に辿り着くまで……。けれどもこうして、また会えた。……フフッ、やはり生きていたか」
時凍成一、表社会にまで足が及ばぬようにと、ニンベン師から買い取った裏での身分証明。
表からしっかりと一線を引き、許枝にすら一切の素性を露にしないまま、やがて忽然と目の前から姿を消していた。
一番の理由は、半身をどっぷりと血に浸からせていたが為に、子供たちを危険な目に遭わせてしまったからだ。
それは本当に、目が覚める思いであった。
同時になんてことをしていたのだろうかと、狂おしいほどに自分を恥じ、涙し、懺悔を繰り返した。
それからはもう、時凍成一という呪われし名は捨て、芹川秀一としてまっとうに、子供たちと人生を歩んでいくことに決めた。
なのに、何故……、今になってまた――。
「力も衰えてはいないようだし、何よりようやく会えたお前を……、逃す手などない」
蘇る情景、多くの者を血でけがし、残酷なまでに打ち負かしてきた過去が見える。
雇い主であった許枝、男の命ずるがままに暴力を振るい、行く手を阻むものを容赦無く潰してきた。
一縷の情けすらかけず、凍てつくような目で見下ろしながら、この身をどす黒い血で染め上げてきた。
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