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「父さんっ……、なんであんなひどいこと言ったんだよっ」 席を立ち、振り向けばそこには、依然として涙を流す颯太が居り、胸をギュッと締め付けられる。 すまない颯太……、お前は特に、咲のことを気に入っていたもんな……。 仲の良い兄二人に、心の何処かでなんとなく遠慮をしていた颯太にとって、咲という存在は本当に大きく、かけがえのなかったことだろう。 いつも笑顔で居てもらいたい、その柔らかな笑みでいつも、周りを温かく包んでいて欲しいとそう願っていた俺が、拭いきれない闇を落としてしまった。 「なんでっ……? なんでだよ! 父さんのバカッ! 嫌いだ! 大ッ嫌いだ! うわあああっ!」 「颯太ッ……、泣くなって。な……?」 そう言う桐也の目にも、うっすらと涙が滲んでいる。 愛する我が子を泣かせ、無感情に見下ろす自分の姿は一体、どれだけ冷酷に映っていることだろう。 覚悟はしていたはずだけれど、やはり頭で考えるよりも、現場は遥かに辛い。 「お前たちにも、暫く此処から出て行ってもらう」 「う、くっ……! う、うっ……」 「親父……、なんでこんな……」 あまりに切ない嗚咽と、不安げに揺れる言葉が、交互に耳を撫でていく。 頬を幾筋もの涙で濡らし、むせび泣く我が子を前に、見えないところで拳をぐっと握りしめる。 これが正しい決断なのか、これで本当に幸せを残せるのか、とめどなく溢れる疑問を消し、黙れと何度も叱咤する。 「カードを渡しておく。そしてここに書いてあるホテルへ行け。部屋はとってある」 感情など無いかのように言葉を並べ、テーブルにカードと折り畳まれたメモを乗せると、用は済んだとばかりに居間を去ろうとする。 「ふざけんじゃねえッ……」 瞬間、やはりと思う。 絞り出された声、怒りで震える言葉を聞いて、すぐにも瑛介から紡ぎ出されたものと理解する。 「なに一人で突っ走ってんだよッ……、誰もついてけてねえんだよッ!」 普段こそへらへらと、お調子者の印象が強い瑛介ではあるが、今は影すら消え失せて、憤怒の表情で容赦無く牙を剥いてくる。 「自分がなに言ってっか分かってんのか!? アイツが親父になんかしたかよ! アイツが此処に居て一番喜んでたのはテメエ! 親父だろッ!!」 胸ぐらを掴み、今にも殴りかからんばかりの勢いで言葉を浴びせ掛け、懸命に目を覚まさせようとする。 けれども残念ながら、未だ意識は正常に保たれており、気が狂っているわけでもない。 いっそ気でも違ってしまえたならば、どんなにか楽だったろう……。 「なんでなんも言わねえんだよ……! なんとか言えッ!! 親父ッ!!」 眉を寄せ、真っ直ぐな瞳で見つめられても、この唇からは一度として、期待するような言葉は紡げない。 黙して見下ろし、未だすすり泣く颯太の声を聞きながら、この手で強く抱き締めることも、笑顔を取り戻してやることも、何一つとして出来ない。 けれどもいつの日か、これで良かったと何気なく思える時が、きっと訪れるはずだ。 それは明日か、一ヶ月後か、数年先か、今の時点では全く予想も出来ないのだけれど、これが最良の道であると信じている。 そうでなければこれから先、一歩として地を踏みしめることなど、とても出来そうにないから。 「話は済んだ。明日の朝、早いうちに此処を出ていけ」 瑛介の手を払い、三人を冷ややかに一瞥してから、言葉を終えて背を向ける。 颯太は未だ、嗚咽混じりに桐也の胸で涙を流しており、此方の話になど耳を貸さず、先ほどから視線すら合わせようとはしない。 桐也と言えば、涙に濡れる弟を優しく抱き寄せながら、悲痛な面持ちで唇を閉ざし、顔を俯かせている。 辛く、悲しく、哀れな表情、そうさせたのは一体誰であろうか。 焼き付けてはいけない、無理矢理にでも記憶から削除しなければ、完全なる修羅にはなれない。 憎まれてもいい、恨まれてもいいと決めたはずなのに、心の片隅では悲しみに暮れ、後悔の念を抱かせようとする。 何故、鬼になどならなければいけない。 修羅と化さなければいけない。 そんなものにはもう、一時ですら心を明け渡したくはない。 けれども、そうでなければとてもこんな状況には耐えられず、踏み切ることすら出来なかった。 決意しても、踏み切ってもまた、次にはこうして心が揺らいでしまう。 喜んで悪にもなろうと、そう決めたはずなのに……。 「クソッ! なんなんだよッ!! ワケ分かんねえよ……!!」 居間を去り、迷い無く二階へと上がっていけば、瑛介がやり場の無い怒りを抑えきれず、荒い言葉と共に椅子を蹴る音が聞こえてくる。 説明もされず、ただ出ていけと命ぜられた三人は、きっと計り知れないほどの痛みを抱え、寒々しい部屋にぽつんと取り残されている。 つい先ほどまでは、人も羨むような温かさで満ち、笑い声の絶えない場所であったはずなのに。 今はもう、欠片すら残ってはいない。 「すまないっ……」 そっと囁き、くずおれそうな身体を引き摺りながら、重い足取りで寝室へと入る。 薄暗く、窓からは月明かりが射し込む中、居るべき相手を追いやってしまった現実に、眉を寄せながらドンと、一度だけ扉を叩く。 黙れ、何も考えるなと言っているだろう……! このような状態で許枝と会おうものなら、間違い無くその揺るぎない悪に喰われ、二度と戻れない闇へと堕ちてしまう。 生憎俺は、そんな未来など望んでもいなければ、奴に飼い殺される気もない。 考えろ……、救いある未来への道を、手離したものたちの、輝きある明日を。 「此処はまだ、大丈夫なようだな……」 窓へと歩み寄り、近辺の様子をじっくりと観察していきながら、まだ許枝の手が伸びていないことに安堵する。 しかし油断は出来ず、いつ事が起こるかも分からないので、出来るだけ早くに此処を出てもらわなければと思う。 けれども出れば安心というわけでもなく、もしかしたら身近に置いておくよりも、遥かに高い危険を招いてしまうかもしれない。 すでに素性を割り出されていたら、三人を認識されていたら、行動を監視されてしまったら、その身を捕らわれてしまったら……。

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