76 / 132

12

「どういうつもりだっつってんだよ、あァッ?」 胸ぐらを掴み、今にも喰らい付かんばかりの目で、真っ直ぐに此方を睨みつけてくる。 人の手を離れた扉は緩やかに閉まり、やがてガチャンと一つ音を上げ、暫しの静寂が訪れる。 痛いほどの視線を浴び、問い掛けには答えられず、苛立ちを増していく來の表情を見つめながら、ただ黙していることしか出来ない。 俺に言えることは何も……、なにも、無い……。 「昨日からなァ、兄貴が帰って来てんぞ?」 形の良い眉を釣り上げ、此方よりかは少々身長が低い為、男らしい顔立ちを憤怒に色付かせながら、容赦無く睨み上げている。 中性的な美貌を湛える咲とは違い、弟の來は言動の端々から荒っぽく、健康的な今どきの青年らしさが漂っていた。 「なあ……、アンタなんか知ってんだろ? つーか……、テメエが原因じゃねえの……?」 更なる力を込め、大抵の者ならば怖じ気付いてしまいそうな睨みと共に、喉から絞り出される声には怒りが混ざっている。 男らしいとは言え、咲同様に綺麗な顔立ちをしている為、表情からは有無を言わさぬ迫力で溢れ、簡単には退いてくれそうもないと思う。 「昨日……、帰って来た兄貴とハチ合わせたんだけどよ、なんも言わねーでソッコー部屋行っちまうし……、聞いたってなんも言やしねえ」 本意で無かったとは言え、食事の途中で咲を冷ややかに追い出してしまい、彼はその後、一人で家へと帰り着いていたようだ。 そして玄関先で來と鉢合わせ、きっと彼は明るく話し掛けていたのだろうけれど、咲からは一切の応答も無く、足早に部屋へと去られてしまっていた。 「昨日までテメエんちに居たんだろ? 何あったのか言えよ。聞いたってアイツ……、なんも言わねえんだよッ……」 眉を寄せ、心配そうな表情を浮かべて目を逸らすと、咲のことを思い出しながら言葉を紡ぐ。 その様子を見て、昨夜此処から立ち去って行った姿が、ふっと脳裏に蘇る。 怒るでもなく、反抗するでもなく、悲しむわけでもなく咲は、たった一言「世話になったな」とそう告げて、一切の未練も感じさせないまま去って行った。 それはお前が、本当は此処から去りたがっていたお前が、ようやく自由を手に出来た瞬間なのだと、あの夜から俺は、そう思っている。 これでお前は間違い無く、幸せになれるのだと。 「おいッ! 聞いてんのかテメエッ! なんとか言いやがれッ!!」 語気荒く詰め寄り、なんとか事情を吐かせようとする來に、何も告げられる言葉が無い。 無事に家へと戻り、これからは本当の家族と仲良く暮らしていけるのだから、それで良いではないか。 此処でのことを話さなくても、直に普段の調子を取り戻すだろうし、今こんなにも怒っていた意味など分からなくなる位、穏やかで幸せな日々が待っている。 それなのに何故、彼はこんなにも喰らい付いてくるのだろうか。 「んでなんも言わねんだよッ!! おいテメエッ!!」 終いには両手で胸ぐらを掴み上げ、家中に響き渡るような怒声を発しながら、少しでも口を割らせようと躍起になる。 けれども紡げる言葉は無く、真っ直ぐな目から視線を逸らすと、何も考えぬよう思考を閉ざしていく。 「ッ……クソ!」 結局は埒が明かず、掴んでいた手を乱暴に離すと、やり場の無い怒りを拳に込めながら、ふいと顔を俯かせる。 そしてどうにもならない状況に曝され、切なそうにぐっと顔を歪めると、次いで弱々しく空気を震わせ、すぐにも聞こえた言葉に耳を疑った。 「兄貴ッ……、泣いてたぞッ……」 「……え?」 泣い、てた……? 咲が……、何故……? 聞き間違いかと思うような言葉、けれども紡がれたのは事実で、真っ白になっていく頭の中で、いつまでもその台詞だけが回り続ける。 「だからッ……、なんも言わねえ兄貴をしつこく問い詰めたら、泣き出したっつったんだよ!!」 「咲が……?」 「ああ、そうだよ! ずっとそっぽ向かれてたし、結局なんも言っちゃくれなかったけど……、ずっと、声殺しながら泣いてたッ……」 そこに咲の、想いの全てがあるではないか。 頭を強く、鈍器で殴りつけられるようだった。 怒ることもせず、言い返そうともせず、言われるがまま静かに立ち去って行ったからといって、心が傷付いていないわけがない。 俺は……、分かっていたはずだろう……。 だからずっと、冷たく突き放すことで動揺し、揺れる瞳を一度も見ることが出来なかった。 辺り構わず怒鳴り散らしたり、何かにつけて言い返してくるような者では、決してない。 時には自分の気持ちすら押し殺し、一歩退いて相手を立て、なんでもないことのように去って行ける人物なのだ。 けれどもそれが、そんな上っ面だけの部分が全てであると、何故俺は思い込んでいた……? 「どうしたらいいのか分かんねえしッ……、せめて兄貴が落ち着くまで側に居てやること位しか、俺には出来なかった……」 來が何を聞いても答えず、この家を出てからずっと寂しさを抱え続け、それを表に出してはいけない、周りに悟らせてはいけないと、健気にも自分一人で抱え込もうとしていた。 アイツが平気なわけ……、ないだろう……。 暗い夜道を一人傷付きながら、どんな想いで彼は家へと帰って行ったのだろう。 傷付いていないと、自由を取り戻せて清々していると、そう自分が思い込もうとしていたのは、そのほうが……、気持ちが楽であったから。 だから俺は……、逃げたのだ。 咲の気持ちを分かっていながら、傷付けているのを分かっていながら、その痛みに耐えられなかった俺は、現実から目を背けて逃げていた。 俺は……、何処までッ……。 「んなことになってるとは思わなかったか……? なんとか言えコラァッ!!」 真正面から睨み上げられ、再び胸ぐらを掴まれても、この手では振り払うことも、強い視線から逃れることも出来ない。 咲は今……、何を想いながら過ごしていることだろう。 お前を傷付けて、振り回して、突き放して、本当に自分でも最低な男だと思う。 「すまないッ……」 「んなこと俺に言ってもしょうがねえだろ! 悪ィと思ってんなら今すぐ兄貴に頭でも下げやがれ!!」 「それは……、出来ない。咲にはもう……、会わないと決めた」 「なにィッ!? テンメェッ……! ざけんなッ!!」 謝罪を述べれば喰って掛かられ、來の逆鱗に触れたことでまたも拳が飛んでくるも、今度はそれをなんなく受け止める。 「望むならば、此処で今何度でも謝ろうッ……。だがもう……、咲とは会わない」 「な、に言ってんだテメエ……! 俺の話聞いてたか!? テメエのせいで兄貴が……!」 「すまない……、これ以外俺には、何も言えない……」 「ッ……!」

ともだちにシェアしよう!