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「……いやだ」
冷めていく風に吹かれ、咲の柔らかな髪が小さく揺れる。
それと共に、唇から紡ぎ出された小さな言葉に、思わず耳を澄ませてしまう。
勇気を振り絞り、震えるように小さな声で訴えられた想い。
こんな自分をひき止めてくれる人が、気にかけてくれる人がいるというのに、我が身に出来ることは冷たくあしらい、気持ちを踏みにじることだけなのだ。
所詮こうなることと分かっていたはずなのに、どうして一目でも会いたいと願ってしまったのだろう。
現実はこんなにも、辛く厳しいというのに……。
「咲……、そこをどいてくれ」
「いやだっ……」
「どけと言っている」
「いやだっ……」
「どけッ!!」
顔を俯かせ、子供のようにいやだと繰り返す咲へと、終いには声を荒げてしまう。
何故退かない、何故言う通りにしてくれない、俺に後どれだけお前を傷付けさせれば、大人しく引き下がってくれるんだッ……。
好きでしているわけじゃない、お前を傷付けたいわけじゃない、出来ることならこれから先もずっと共に歩んでいきたい。
けれども出来ない……!
それは決して、許されてはいけないことなのだ。
もうやめてくれッ……、これ以上まだお前を傷付けなければいけないなんて……、俺には耐えられないッ……。
「どうしても……、此処を通さないつもりか?」
「……ああ」
どんなに冷たく当たっても、咲の意志は固く揺るぎないらしく、ここまでくるともう、力ずくで通り抜ける位しか術が残されていない。
力ずく……、すでに容赦無く咲の心を傷めつけていた俺に、更には身体までもを傷付けろと……?
そんなこと……、出来るわけがっ……。
何故、そこをどいてくれない……!
素直に道を明け渡し、何事も無かったかのように別れれば、それで済む話だというのに。
そうすればお前は、これから先も温かな家族と共に笑い合いながら、幸せに生きていけるというのにっ……。
「どうして分かってくれないッ……。俺はただ……、お前たちに幸せになってほしいだけなんだッ……」
咲の肩を掴み、悲痛な面持ちを隠すように俯かせ、辛く苦しい心情を絞り出す。
「お前のほうこそ……、なにも分かってねえじゃねえかッ……」
咲や子供たちの幸せを切に願い、自分の行いは正しいことなのだと信じながら、やっとの思いで前に進んでいる。
けれども最後の関門は強敵で、冷たく突き放しても去ってはくれず、怒鳴り声を発しても引き下がってはくれない。
傷付いた表情を浮かべ、心を痛めつけられていながらも、決してこの場から離れようとはしてくれない。
何故……、伝わってくれない……。
これ以上どうすればいいのかと迷走し、肩を掴む手に自然と力が入っていく。
「分かってないのはお前のほうだろう……!」
「分かってねえのはテメエだッ!!!」
「ッ……!」
半ばムキになり、強い口調で再び咲を黙らせようとすれば、それを上回る視線と物言いに晒されてしまい、先ほどまでとは全く違う姿に、思わず唇を閉ざしてしまう。
「ッんで……、こんなことも分かんねえんだよっ……」
また一度視線を逸らし、切なげに表情を曇らせて紡ぎ出すと、躊躇いがちにもはっきりと、とどめの一撃を繰り出してくる。
「アイツらや俺がッ……、お前無しで幸せになれると思うなっ……」
微かに涙を滲ませ、真正面から見上げてきたその眼差しに、囚われて返す言葉も無い。
まさか咲が、そのようなことを言ってくれる日が来ようとは、正直思ってもみなかった。
優しく穏やかで、けれどもあまり自分の気持ちを表には出さず、表情もそんなにコロコロとは変わらない。
でもその端々で、本当に自分のことを好いてくれていて、自分が都合良く捉えていたわけではなかったのだと、涙ぐんだその言葉が改めて教えてくれた。
こんな自分でも、涙ながらに求めてくれる存在がいるということ。
それは不覚にも心を熱し、咲に対する棘をバラバラと抜き落としていく。
――お前無しでは幸せになれない。
その言葉がどれだけ、自分を救い上げてくれることだろう。
……もう、耐えられそうになかった。
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