93 / 132
朝
「いってきま~す!」
元気の良い声と共に、笑顔を見せながらリビングを後にしていく颯太を目にし、それと同時に気付いた事がある。
「おい、颯太」
「え? どうしたの咲ちゃん」
テーブルに置かれていた物を手にし、玄関で靴を履いていた颯太の元へ、名を呼びつつ近付いていく。
履き終えて立ち上がった颯太、一体どうしたのと言う風に首を傾げながら振り返ってきた。
「食えねえっつうのかコレは」
言葉少なに呟きながら、颯太の眼前へズイッと差し出したのは、お弁当。
「あああっ!! 俺のおべんと!! 咲ちゃんありがと~!!」
その物が弁当である事を確認してすぐ、真ん丸に目を見開きながら盛大に玄関で騒ぎ出す。
どうやらすっかり忘れていたらしい、ボケッとしてっからだぞ。
「食べないわけないじゃん!! いっつも楽しみにしてるんだから!! お昼まで中身は見ないんだ!!」
「……そうかよ」
受け取って鞄の中へと入れながら、突如として弁当について熱く語り出した颯太を前に、正直どう反応を示したらいいのか困ってしまう。
いつも颯太は何かとよく手伝いをしてくれているのだが、弁当を作っている時だけは絶対に近付いて来ない。
そんなものだから、楽しみであるはずの弁当がいつの間にか頭の中から消え、持たないまま家を出て行こうとすることがしばしばあった。
「咲ちゃん、ちょっとちょっと」
「……ん?」
颯太と向き合いながらぼんやりと、様々な事に思考を巡らせ始めていた時に、言葉を掛けられて我に返る。
一体なんだと思いつつも、手招きする颯太の目線に合わそうと、膝を曲げて前屈みになっていく。
「大好きだよ、咲ちゃんっ」
「!?」
耳元でそっと囁かれた言葉を理解する前に、頬へと柔らかい感触が落とされて、一瞬思考が止まってしまった。
「じゃね! 今度こそ行って来ま~す!!」
半ば呆然としつつも、それでも屈託の無い笑顔を見せながら手を振る颯太に、自然と手を上げてしまう。
「……気ィ付けろよ」
変わらず無表情でありながらもそう口にして、「全く」なんて思いつつも玄関扉が閉められるまでは、その場から動かず見送っていた。
「ん?」
そして暫しの間を空けて、ハッと頭に浮かび上がってきた事柄に、再びリビングへと足が向けられる。
「……お前なぁ、時間分かってんのか?」
辿り着いた先では、未だに朝のニュースを眺めながらゆったりと、ソファに腰掛けている瑛介の姿があった。
「おい瑛介!! テメなにやってんだバカッ!! 早くしろっつの!!」
「おう桐也、早く連れてけあの馬鹿」
呆れついでに軽く溜め息を吐き出せば、洗面所へ行っていた桐也が戻ってくる。
「んな慌てんなってえ、このニュース気になんねえ?」
「一番興味ねえ奴が何言ってやがる! 魂胆見え見えなんだよ!!」
「学校行くのめんどくちゃ~い」
のんびりとソファで寛いでいた瑛介の元へ向かい、襟首を掴んでどうやら強制的に引き摺って行くらしい。
すっかり怠けていた瑛介を無理やりに立たせ、登校を面倒臭がる弟に構わず引っ張って行く兄。
「行ってくる」
「おう」
あれだけ怠けながらも最後には結局言う事を聞く瑛介を眺めつつ、なんだかんだで仲の良い兄弟だと思う。
騒がしさは玄関扉が閉められるまで続いていたが、その後は一気に静けさが支配し始める。
「……」
暫くはぼんやりと突っ立っていたのだけれど、そういえばまだ1人居たと言う事に気付き、廊下へと歩を進めていく。
「もう行ったんだな」
玄関に辿り着けば、その内トントンと階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
「……ああ」
「俺もそろそろ行くかな」
やがて同じ床に足を着けた秀一と視線が交わり、普段通りの穏やかな笑みを向けられる。
すっと歩みを進め、靴を履き始めた後ろ姿を見つめながら、変わらぬ姿勢で立ち続けていた。
「じゃ、行くな」
「……おう」
靴を履き終えた秀一が振り返り、そう言葉を紡ぐ。
「色々、気を付けろよ」
「……気ィ付けんのはお前の方だろが」
「い~や咲の方だ! 知らない人が家に来たら居留守使うんだよ咲! ちゃんと戸締りしてむやみやたらとその綺麗な顔を外に出さない様に!」
「……はあ。馬鹿かお前は」
外へ出て行く者に心配をされて、呆れながらもボソりと言葉を返す。
「ははっ、俺はいつでも本気だよ」
笑みを浮かべながらそう紡ぎ、徐々に狭まっていく距離。
「んっ……」
触れてきた唇を拒絶しようともせず、自然な流れの中で受け入れる。
「ふ、……んっ」
やがて重ねられた唇が薄く開いていき、差し出された舌が口内へと滑り込んでくる。
「ぁっ……」
色濃く漂い始める空気の中で、するりとシャツを捲られて侵入してきた指先に、ハッと理性が戻って来た。
ガツッッ
「いっ……!!」
「テメッ……! 調子に乗んじゃねえっ!!」
容赦無く炸裂した足への蹴り、身を離した秀一が声も出せずに苦しみ出す。
少し乱れていた呼吸を整えていきながら、赤みを含んだ頬を冷ましていく。
「いててっ……」
「とっとと行ってきやがれこのボケッ!!」
痛がりつつも楽しそうに笑う秀一に、気恥ずかしさも手伝って荒く言葉を口にする。
「じゃ、続きはまた今夜」
「死なすぞテメエ」
全く懲りない秀一は、今朝もニコりと落ち着く微笑みを残して、外へようやく足を踏み出していく。
「じゃ、行ってくる」
開かれた扉の隙間から射し込む光、一度此方へ視線を合わせてから、外の世界に消えていった。
「……ふん」
しんと静まり、誰も居なくなった家で一人立ち尽くしながら、視線は依然と玄関へ向けられる。
「……バカやろ」
照れ隠しに呟かれた言葉、染まる頬から熱が引かない顔を俯かせながら、そそくさとリビングへ戻るべく踵を返す。
そんな、今ではありふれた、それでいて尊い、朝の光景。
《END》
ともだちにシェアしよう!