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第31話

 人間は、などと大袈裟に語ればいかにも陳腐になるが、実際少なくとも自分は、根本的に自然に対してなす術のない非力な存在だ。それを思い出させられる瞬間に、夏に暑い、冬に寒い、と思わず声に出してしまった時、というのがある。言ったところで変わりようのない現実を受け止めきれずにこぼした虚しさがあるし、言われるまでもないことをわざわざ確認させられたほうも、げんなりするというものだろう。 「寒いですね」  昼間ほんの少し温まった空気も、夕暮れとともに凍えるにじゅうぶんな冷たさになっている。 「冬だからな」 「そうですね」  日夏はにべもない返事に屈託なく頷き、日没の気配の近づく空を見上げた。  虚しいはずの言葉も、眼下の青年が小動物じみた仕草で身震いしながら口にすれば少し違って聞こえる。丈のつまらない鬱屈をさながら埃でも払うように軽く排除して、世間話の他愛なさを享受することを許すのだ。 「年内に大雪が降るかもって」 「ああ、そういやこないだお前が言ってたな」 「大寒波が来てるらしいですよ。俺じゃなくて、ニュースで言ってます」 「詳しいな。天気のチェックは任せたよ」  政治経済は論外、ニュース番組の中ではせいぜいエンタメと天気予報くらいにしか興味を示さないことを揶揄われたのだと、どうやら気付いたらしい。日夏は失笑を堪える丈の横顔を恥ずかしそうに睨むという複雑な芸当をしてみせたが、反論そのものはないようだった。 「でも」  ややあって、ぽつり、と言う。拗ねた声ではない。 「うん?」 「俺、寒いのは苦手ですけど、雪ってちょっと好きです」 「へえ」 「あんまり降らないからっていうのもあるけど。映画とかドラマとかのイメージなのかな、特別な感じがするっていうか。ちょっとだけ待ち遠しいかも」  毎日飽きもせず寒い寒いと言っているうちに、ニュースでもしきりに大寒波の話題が取り上げられるようになった。自分にとってそれは決して良いニュースでなかったが、日夏にはまた別の感じ方があるらしい。夕焼けは晴れ、朝焼けは雨の前兆と古くから言われている。彼の望みとは裏腹に、透き通ったオレンジ色の夕焼けを見るところ、おそらく明日も晴れるのだろう。 「童謡があったよな」  ふと、記憶の奥底から懐かしい歌が浮かぶ。 「犬は喜び庭駆け回り、猫は炬燵で丸くなる」  童謡の一節を口にするなど、果たして何十年ぶりだろう。 「それで言えばお前は犬だな」 「でも、実際は炬燵で丸くなってるかも。丈さんは?」 「そりゃ、断然猫だろ」 「猫――似合わないですね」  意趣返しのつもりだろうか、だとしたら成功だ。  天気予報によれば近々降るであろう雪をどう思っているか、あくまでそれを歌詞になぞらえただけだったが、彼の感想には全く反論できない。珍しく躊躇う様子もなく吹き出した日夏の頭を軽く小突くくらいしか、丈にできることはなかった。 「俺だってそう思うよ」    クリスマスが終われば忘年会シーズン、街も人も年越しムードに変わる。  土曜に例のクリスマスパーティーを終え、予定では昨日と今日を休業日とするつもりだったのだが、昨夜になって店からの転送電話で飛び込みの予約が入ったため、月曜の今日が急遽営業となった。土日か日月の休みを基本としているものの、客あっての客商売だ――などともっともらしく言ってみても、馴染みの不動産屋でなければ断っていたかもしれないと平然と考えているあたり、我ながら客商売を自負する資格はない。 「貸切の貼り紙、今日も貼っとくか」 「だったら、あの。書き直してもいいですか?」 「なんで」 「いまいち上手く書けなかったから……」 「そうか?じゅうぶんきれいだろ」 「でも。ちょっとバランス悪いし……」 「お前はよっぽど職人気質なんだなぁ」  およそ強引とは程遠い日夏の、妙なところで譲れないらしいこだわりには感心させられてばかりだ。東雲の戸口に貼るにはそれでも過ぎた代物だと、言ったところで納得はしないのだろう。  ゴミ捨て場のある十字路を過ぎ、最初の路地を曲がれば勝手口が見えてくる。  夕暮れ時はこの辺りにとってまだ早い時間で、どこか閑散とした雰囲気が漂っているのはいつも通りだ。  ふと、気配というよりもっと明確なものが感覚を刺激する。  はっと顔を上げたのは日夏だった。  うっすらと流れてくる、甘く焦げ付いた匂い。たった今咥えたばかりのマルボロには、まだ火を付けていない。嗅ぎ慣れない匂いの煙草をくゆらせる正体は、ポリバケツの横からゆっくりと立ち上がった。  会って間もない時、煙草が苦手そうだという根拠のない思い込みからだろう、無意識に煙いかどうかしつこく訊いたらしく、日夏がそれを指摘して笑ったことを思い出す。華奢な体いっぱいに抱え、抱えきれずにこぼれた僅かな違和感は、パズルのピースのごとく不意のタイミングで一つずつ合わさり、いずれ目の前のこの男の姿を象るのだと、今はもう知っていた。 「ひな」 「ゆう……」  声が青ざめるという表現ができるなら、まさにそれだった。  黒の短いコートから出た、すらりと長い脚。泣きぼくろの印象的な甘いルックスによく似合う甘い煙草を咥えていた男は、それを足元へ落とすと、靴底で踏みにじった。 「出入り禁止になったので」  皮肉っぽく言って、丈を睨め付ける。 「言いつけは守ってるって?」 「ええ」 「褒める気にはなれんな」  確かに、店内に入ってはいない。出入り禁止とは、次に現れたら手加減はしないと暗に告げたものだったが、まさか通じていないわけではないだろう。揚げ足を取って冷笑する余裕があるのは、よほど見くびられているのか、彼が本当の苦痛を知らないからか。ルックスついでにその考えの甘さを悔やむことがなければいいとお互いのために思いながら、丈も咥えていた煙草を捨てた。 「用件は」 「ひなを迎えに」 「連れ戻しに、だろ?」 「この間のことなら、反省してます。頭に血が上って……ひな、悪かった」 「俺にも謝罪が欲しいところだな。割った皿の請求書は用意してある」 「ひなさえ戻ってくれば、いくらだって払いますよ」 「冗談だ。手切れ金代わりにしてやる」 「それも冗談ですよね」 「さあな」  彼の苛立ちが空気を伝って刺さるようだった。面の皮が厚いことに感謝すべきだろう。 「ねえ、どうしてそんなに、ひなを庇うんですか」  責めるように問われて、はじめて日夏を背中に庇っていたことに気付く。いつからこうしていたのかまるで覚えがなかったが、ダウンの肘を掴む縋るような力は、気のせいではない。 「どうしてだと思う?」 「やっぱり、そういうことなのかよ」  意図的な反問は、彼の中の疑念を確信へ変えた。 「ずっと俺から離れたがってたもんな。他に頼れる相手がいないから、仕方なく一緒にいたんだろ?」  日夏を愛おしそうに「ひな」と呼ぶ男は、同じ顔、同じ声で、忌々しげに日夏を謗ることができるのだ。日夏は小さく身じろぎ、それから、切ない声を上げた。 「違う。その話、何回もしただろ」 「そうだな。何回話しても、平行線だった。で、実際、相手さえ見つけたらあっさり俺を捨てるんだな――こんなふうに」  言いながら、広げた両手を上げ、投げ出すようにだらりと下げる。 「違うよ」 「どうやって落とした?もう寝たんだろ?」 「やめて」 「ひなはよかった?あんたくらいの歳になると、こんな若いやつとなんてそうそうできないんじゃない?こいつ、一度許したらすごいでしょ?」 「ゆう、やめてよ」  堪らなかたのだろう、悠生に掴みかからんばかりに飛び出そうとする日夏を遮り、引き戻す。 「いいよ。言わせとけ」  大きく上下する肩を落ち着かせるように抱くと、眼前の端正な顔が不興げに歪んだ。そうなるように仕向けた行動ではあったが、だからといって真っ向から受けて心地良いベクトルのエネルギーではない。 「いい歳して、べた惚れかよ」  易い挑発には、易い挑発が返ってくるというわけだ。 「質問は以上か?なら全部に、ご想像にお任せすると答えておくよ」  数秒の呆けたような沈黙の後、悠生は喉の奥で力なく笑い出した。 「あんた、捨てられるよ――俺と同じ、使い捨てさ」 「ずいぶんな言い方だな」 「でも、それでも俺は待ってる。なあ、ひな、俺達にはお互いしかいないだろ?」  うっとりと細められた目の奥は、深い闇のようだ。  彼らを繋ぐものが、ぴんと張った一本の糸などではなく、何度断ってもゆるやかに生える蔦のようなものだったのだと、理解ではなく実感した瞬間だった。目には見えないその蔦を、手掴み根ごと引き抜く。日夏が望んでいるのはそれだし、叶えてやりたいとも思う。 「参考までに教えてやる。俺くらいの歳になるとな、生涯ただ一人と思える相手なんてのは、思い返せば何人も候補がいたぜ。お前さんたちがそうでないとは、俺は思わんがね」  運命の相手などではないと言下に決めつけられて、素直に頷く男などこの世にはいないだろう。それでも、彼らにとって長い間と言える時間連れ添ってきた相手の心が今もう離れていることに気付いているのなら、大人の戯言と聞き流すこともできまい。  返ってきたのは、噛みつくような笑い声だった。 「じゃあ、諦めさせてくださいよ。ひなが二度と俺には戻って来ないって、見せつけてみろよ」  三文芝居にもない展開が、現実には起こりうる。 「そういう趣味はないな」 「できないのかよ」 「趣味じゃないが、できなくはない」  丈は、腕に抱いた華奢な肩を引き寄せた。  不安と混乱がない交ぜになった表情で見上げてくる日夏の、きつく結ばれた唇に指で触れる。ぎゅっと、唇の内側を噛み締めたのがわかった。 「嫌か?」 「でも……」  悠生がけしかけていること、丈のしようとすること、どちらも同じであるそのことを、ようやく悟ったらしい。それでいい、と、ふと思う。駆け引きに慣れない様子がむしろ好もしく、場違いな失笑が漏れそうになる。 「我慢できるか?」 「だって……」  捕えようとするほど泳ぐ視線を、先回りして追う。 「――早くしろよ」 「焦るなよ」  野次を背中に受けながら、 「いいか?」  こくりと引いた顎を、指で押し上げる。  冷たい唇に唇を押し当て、横目で観察者を確認したが、皮肉っぽい微笑のまま続行を促すだけだ。彼は言った、諦めさせるようなものを見せつけろと。  角度をずらし、身を固くしたまま動けないでいる日夏の頬をあやす。少し力が抜けたところで唇の端に音を立てると、びくりと肩を縮めたが、二度、三度と音を立ててやるうちに、まずは呼吸が応え始める。次第にじわりと痺れてくるのはこちらも同じだ。綻びに舌を沿わせると、日夏は恐れずに口を開いた。  柔らかく、滑らかな感触の内側をなぞる。  拒む素振りのないそこを、徐々に強くかき回すうちに、咥内に温かい液体が溢れる。  そうすれば、わざとするまでもなく、湿った音が漏れ始める。  唾液が絡み合ってしまえば、躊躇うほうがよほど恥ずかしい。  口付けにも癖がある。  日夏は舌よりも唇、それも下唇の内側を弄られるのが好きらしい。触られた時だけ感じていたのが、次第に、自分から誘うようになる。鼻先を丈の頬に押し付けるようにして、しきりに擦りつけてくるそこを何度目かに強く吸った瞬間に、甘い鼻声が上がり、膝が折れた。  丈は咄嗟に日夏の腰を抱き、強引に細い腕を自分の首にかけさせる。 「こうしてろ」  耳元に囁くついでに、唇を落とす。 「うん……」  吐息でかすれ、朦朧としていても、従順な返事。  しがみつくのがやっとの風情のくせに、唇を探して頭を振る。  屈み込む体勢では不自由すぎるなと思った時には、日夏の羽根のように軽い身体を抱き上げていた。    耳障りな異音が、終了の合図となった。  勢いよく倒れ込んだポリバケツが、足元に当たって止まる。 「くそ」  捨て台詞があったとすれば、誰に向けたともわからない短い悪態がそうだった。彼はそれ以上何も言わず、この場を立ち去ったのだ。    夜の近づいた薄闇に消えていく、黒い後ろ姿を見送る。 「あの……」  震える声が、耳元をくすぐる。 「ああ、悪い」  宙に浮かせていた身体を下ろすと、ふらりと地面に降り立った日夏は、両手で顔を覆った。呼吸を整えるのに、たっぷり三十秒は使ったと思う。  やがてその両手の隙間から、くぐもった声が上がる。 「あの、丈さん」 「うん?」 「俺、あの、忘れ物があって」 「うん」 「ちょっと、取ってきます」  言うやいなや、日夏は走り出した。  呆気に取られている、というのが最も適切な状況かもしれない。丈は足元のポリバケツと、小さくなる背中を見比べ、ダウンのポケットから煙草のケースを取り出した。  一本、いや、一口吸ってから追いかけよう。  睫毛の先に付いていた滴はおそらく涙だろうこと、合鍵を持っていない彼が一人で取りに戻るような物は何もないこと、わかっているのはその二つくらいだ。

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