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第32話
階段のふもとにしゃがみ込んでいた日夏は、まるで不測の事態に直面したように狼狽えてみせた。追って来るとは思わなかったのだろうか、だとしたらあまりに期待されていなかったことを嘆くこともできるし、彼の自己評価が低すぎることを叱ることもできる。
丈はいつもの歩幅と速度で歩いているだけだったが、日夏がまごついているうちに距離は縮んでいく。逃げ道は二つ、正面か背後。追い込まれた彼が選んだのは、一瞬でも丈から遠ざかる方向だった。翻って手すりを掴み、階段を駆け上って行く。
もちろん同じだけの段数を上れば、すぐに追いつくのだが。
階段を上りきって最初の部屋、つまり自分達の暮らす二階の角部屋の前で、律儀にも彼は足を止めた。他人の部屋の前まで行くのは気が引けたのだろう。
丈はポケットから鍵束を出し、音を鳴らして振った。
「忘れ物だって?」
「……丈さんは、優しいです」
「どこが」
普通、開口一番こんなふうに揶揄う男を、優しいとは感じない。
「俺なんかのために、あんな……芝居まで打ってくれて」
「いいやり方じゃなかったな」
「そんなこと」
「お前を泣かせた」
日夏は俯いたまま首を振った。
「じゃあ、これはなんだよ」
手を伸ばしてた触れた頬は、まだ乾いていない。ごまかしようのない事実を暴いてもなお、日夏は頑ななまでに首を振る。
「わかんない」
言うと同時に、ひく、と小さくしゃくり上げ、声を震わせた。
「俺、いなくなりたい……」
「どういう意味だ?」
「俺がいる限り、ゆうが、また」
「その問題は、今度こそ解決したはずだ。本当のことを言え」
強く言ったつもりはなかったが、手のひらからかすかな怯えを感じる。少しの誤解も与えるべきでないと、丈は意識して優しく語りかけた。
「怒ってるわけじゃない」
「無理だよ」
すげない答えだった。
「聞いてみなけりゃわからん」
「丈さんには無理だよ」
「なんで。言ってみろ」
決して怒っているわけでもなければ、責めているわけでもなく、むしろその逆だというのに。丈が言葉を重ねるごとに、日夏の声が涙で濡れていく。
「だって、俺」
顔を上げた日夏は、ゆっくりと目を瞬き、絞り出すように大粒の涙を一粒落とした。
「好きになっちゃった……かもしれないから……」
向けられた黒い瞳が、茫洋と揺らぐ。
「ううん、かもしれないじゃなくて、もうなっちゃったよ……丈さんのこと」
「ああ」
「優しくされたら好きになっちゃうなんて馬鹿みたいだし……俺なんかのためによくしてくれたのに、こんな気持ち、最低です……」
「ああ」
もしかしたら自分はどう振る舞っても、必ず彼を泣かせる運命なのかもしれないと、奇妙な可笑しさが込み上げる。
丈はか細い身体を抱き寄せ、抱き締めた。
「それで?俺はどうすりゃいい?」
「……俺のこと、いなかったことにしてください」
「無理だな。もう少し現実的なことを言え」
「……放してください」
「そう来たか。だがそれも無理だ。もっと高い要求はないのか?」
小さな頭を手で包み、胸に押し付けてやる。
「……嫌いにならないで」
「ああ。それから?」
おずおずと背中に回された手が、弱々しくダウンの裾を掴むのがわかった。
「……そばに、いさせて」
「ああ」
「……ほんとに?」
「本当だ」
「俺、女の人じゃないのに?」
「知ってるよ。ずいぶん気にするな」
「だって」
「まあ、俺のせいか」
「丈さんに好きな女の人ができるまででいいから、そばに置いて……」
女だったら申し分なかったと、言外に、いや直接言ったこともあったろう。他意のない戯言を吐く度に彼を傷つけていたのだとしたら、少なくともそれを回復する分だけ、真心のある行動をしなければならないと思う。
火照って熱いくらいの日夏の頬を、撫でる。
「もっと高い要求が欲しいんだがな」
ぼんやりと見上げてくる、やはり熱っぽい表情。
ああ、これは真心ではなく下心というやつだ、と、得心がいくとともに、堪えきれず苦笑してしてしまう。
「目くらい瞑ってくれ」
これ以上ないくらい赤面した日夏が、やがて、そろりと目を閉じる。その目蓋の上に一度、それから一際赤い唇に口付けた。
「ん……」
少し塩辛いそれを味わって、放す。
「――さて。忘れ物だな」
「あの、丈さん」
恥じらいながら困惑するという、これもまた複雑で絶妙な反応だ。
「ここじゃ寒いだろ」
「あ、うん……」
呆然と呟いた日夏から、困惑が抜けて、恥じらいだけが取り残されたよう。
人前でラブシーンを演じるなど、本来趣味でないのは本当だ。今一番必要なのは、人目がなく、できれば冷たい風の当たらない場所である。最適なのはこの背後のドアの向こうだろう。
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